sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

古代史考察-1.岡山の尾張氏 その4

前の記事で尾治針名眞若比咩もしくは尾綱真若刀婢を奉斎した神社を寡聞にして知らない。

と偉そうに書いたのですが、あっさり発見していまいました。

盲点でした。

又名の「志理都紀斗売」で調べると、割りと近くにあるじゃないですか。

 

井原市の「足次山(アスハヤマ)神社」。

公式の主祭神は安須波之神(足次)ですが、それは志理都紀斗売命のこと、らしいです。

なぜここに志理都紀斗売がいるのか?と思ってたら、ここいらは昔、後月郡や後月郷があった地。

そうか!「後月=シリツキ」じゃないですか!

なぜ今まで気づかなかったのか!ちょっと目眩がする気持ちでした。

ということは、尾張氏もしくは尾張氏系統の氏族が備後、井原の地で割拠していた、ということなのでしょうか?

私は、「尾張氏」の「尾」はその昔「シリ」と読んでいた、と思ってます。

(シリという音に「尾」の字を当てた)

というか彼らは、「シリ」という部族名であったか、「シリ」という(九州か大陸か?)の地域にいた集団だったのではないか?と思っています。

その次の「ツ」や「キ」は「津」や「城」ではないか、と推定されますが、これについては勉強中です。

(尾綱の「ツ」「ナ」も同様です。甲音・乙音の勉強が必要です)

このあたりの「後月=シリツキ」の由来をもっと調べなければなりません。

尾張系の人たちはこの地域の方で活躍していて、岡山の方にも流れてきたのかもですね)

新たな課題ができました。ワクワクします。以後、順次加筆していきます。

※追記…備後は「きびのみちのしり」と古代には呼ばれていたらしく、そこから「シリ」が発生した可能性もあることに気づきました。とすれば、尾張氏の名前も備後にいたから、という推理も成り立ちます。時代的には応仁朝以降でしょうか?尾張国造との整合性が必要になりますが・・・

 

※勉強で分かったこと…後月郡誌に足次山神社の祭神はアスキ神とかかれてました。ということは祭神は、阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)の可能性が大です。元来出雲系の神様を祭る神社だったようです。志理都紀斗売は後世の府会かもしれません。そして後月郡(後月郷)の由来については、同市高屋の近辺に後月谷という地名があって、それをもとに名付けられたらしい、というくらいしか分かりませんでした。

うーん、眞若姫と関係あるのか無いのか悩ましいところです。

まぁこれから新発見あるまでは保留ですね。

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(参考)

郷社 (倉掛自治会-足次山神社紹介)

遺跡訪問-1.七つグロ古墳群

グロは、つちへんに丸と書く漢字です。

尾治針名眞若比咩神社の参道から横にそれて、西方向に20分ほど山腹をあるいたところ、南に伸びる尾根伝いにある古墳群です。

(私が最後に訪れて3年以上経つので今は山道が無くなっているかもしれません)

9つ程発見されている古墳の内最大の1号墳が1番北側(山頂に近い側)にあり、昭和50年代に学術発掘された竪穴式の石室が見える状態で存在してました。
(正確には、8号・9号墳が最北で1号墳はその南)

1号墳の造墳時期は、4世紀初頭(箸墓古墳とほぼ同時期)と推定されてます。後に記事にする都月坂古墳(1号墳)より若干早い時期だろうと考えられてます。(近藤義郎先生「吉備考古点描」

 ということは、岡山平野にある最古の古墳であった可能性が高いです。恐らく津島遺跡の地を含む岡山平野の農耕民を最初にまとめ上げた氏族の墓ではなかったかと思います。

文字的な記録は全く無いので推測しかできませんが、元々津高あたりに居た原住民とは別に、海から来た渡来人(九州あたりからか、半島から来た人たちか)が半田山の南麓に住み着き、海産物を獲ったり稲作を始めたのが、この七つグロ古墳被葬者に支配された人たちだったのでは無いかと考えます。

このあたりにある古墳は全て、当時の内海(岡山平野と児島に挟まれた浅瀬)からよく見える位置に作られていて、舟で航行する人たちを意識して造られたものだと思います。

尾治針名眞若比咩神社と直接つながるものはありませんが、岡山に居た尾張氏か伊福部氏の祖先たちであった可能性は十分あるのでは?と思います。

(新たな知見を得たので追記)

都月坂1号墳の項でも書いてますが、この古墳の盟主は、彦五十狭芹彦命吉備津彦)とともに吉備に侵攻した氏族の可能性も十分考えられます。
具体的には、三野臣や笠臣の祖となる鴨族(天孫族の流れで葛城鴨・山城鴨の同族)の楽楽森彦の一族が吉備進攻完了後、この地を居所としたのではないか?と考えます。
半田山の南側には三野臣の本拠があったようですし(岡山市御野)、この界隈には鴨族(=天孫族)の祖、少彦名神を祀る「天神社」が散在(少なくとも延喜式の頃から)すること、からです。
(ほとんどは、宝賀先生の受けウリ)
そして、都月坂1号墳よりは、弱冠七つグロ1号墳の方が先行するかもということで、この七つグロ1号墳はもしかしたら、吉備進攻・温羅征伐で活躍した楽楽森彦の陵墓であったのでは?と思うのです。
前方後方墳というのも、吉備津彦命の臣下という格に相応しいと思いますし。
そして楽楽森彦の妹の高田姫が吉備津彦命の妃となり、彦刺肩別命を産み、死後、網浜茶臼山古墳(彦刺肩別命)と操山109号墳(高田姫)に葬られたとすれば、位置的には整合が取れるな、と思うのです。
そう考えると、今の岡山市街地の古墳にもワクワクしてきませんか?

 なお、そう考えた場合は、私の好きな尾治針名眞若姫や尾張氏・伊福部氏たちは半田山南麓ではなく、今の尾針神社のある京山東麓を居所としていた、と考えざるを得ません。
今の尾治針名眞若比咩神社は(本来あった場所は不明ですが)元々、今の場所では無かったと考えるのは少々残念ですが、そういうことなのでしょう。( ˘ω˘ )
*延喜式に記述されてますのでどこかにあったことは間違いないと思います。どこだったのでしょうか?

 (参考)
七つグロ古墳群-「古墳のお部屋」平家蟹氏ブログ

古代史考察-1.岡山の尾張氏 その3伊福部氏

五百城入彦皇子とはどのような人か?御名代と言われている伊福部氏とはどんな部族か?岡山の伊福部氏は何をしていた人たちか考えてみます。(勉強中につき順次内容を追加していきます)

五百城入彦皇子

 

伊福部氏ー全国にいたようだが、実態は様々だったのでしょう。

皇子の御名代だった部族もいれば、製鉄、石作、雅楽、他色んな職掌の部族がいたようです。また全国一系統ではなく、いくつかの系統があったと思われます。

岡山の伊福部は、独自の系統であったのかも知れませんし、鳥取や近畿から流れてきた人たちであったのかもしれません。

どちらにしても、岡山にいた伊福部氏は製鉄(製銅)を行なっていた人たちだったと思っています。

(伊福部氏=息吹部説)

住んでいた場所も、京山の麓から津高・金山にかけて割と広範にいたのではないかと思っています。

 

(参考)

五百城入彦皇子 - Wikipedia

石作氏と伊福部氏 | Tomのスペース

 

古代史考察-1.岡山の尾張氏 その2

考察② 「考察①う」の続きです。

鳥取からか奈良からか滋賀からか、もしくは最初から独自の伊福部氏が岡山に存在したか、その辺は全く不明ながら伊福部の一族が、同じ系統の尾張氏の祖先神を奉斎したのかもしれません。

尾治針名眞若比咩神社の祭神が尾綱真若刀婢とすれば、この人は五百木入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、伊福部(五百木部)は五百木入彦皇子の御名代であった可能性もあり、それで尾綱真若刀婢が奉斎されたのかも?と推測はできます。さらに尾綱真若刀婢を奉斎するなら、尾綱根命も奉斎しようよ!となったと考えられなくはありません。

(参考)

トベ - Wikipedia

 

もしこの仮定が成り立つとすれば、私の頭はとてもスッキリします。

ただしこの仮定に対する疑問もあります。

日本のあちこちに伊福部氏が存在した痕跡がありますが、なぜ岡山に居た伊福部氏だけが、「尾綱真若刀婢・尾綱根命」を奉斎したのか?です。

私が不勉強なだけかもですが、寡聞にして「尾綱真若刀婢」を祀った神社の存在を知りません。(尾綱根命は針綱神社等で祀られてますが)

何か岡山の伊福部氏だけが持つ「尾綱真若刀婢」に対する特別な思い入れがあったのでしょうか?

 

ここに私は、ロマンを感じます。

「尾綱真若刀婢」もしくは彼女の存在に類似するような女性が古代の岡山で活躍したのでは?と。

尾張氏系図を信じれば、時代は4世紀後半。応神天皇が頭角を現し始めた頃のはずです。

(後の記事で書くと思いますが、応神天皇神功皇后の子ではなく、皇族ながら、それまでの天皇系統とは別の系統で、播磨あたりで生まれ育った人だと考えてます)

古代史考察-1.岡山の尾張氏 その1

私の1番大きなテーマを真っ先に考察します。

尾治針名眞若比咩神社、尾針神社がなぜ岡山市にあるのか?

そして、なぜ現在尾張氏の痕跡が全くないのか?

古代史に興味をもって、1番最初にぶち当たった疑問です。

 

考察① 両社になぜ尾張氏系氏族が祀られているのか?

   (尾針神社には尾綱根命が祀られているという前提です)

あ.本流の尾張氏が岡山に住んでいたのか?

4世紀中頃には、両祭神の祖父にあたる「乎止与命」が尾張国造と定められているのでそれ以降に、岡山の地に住んでいたとは考えにくい。

 

い.尾綱根命の子の系統とされる尾治針名根連の子孫が岡山にいたのか?

これは可能性として考えられますが、その後に尾治〇〇とか尾張〇〇とかの姓を名乗る氏族が見当たらず、文献も無いので強くは推せない。

ただし、1つだけ足掛かり(手がかり?)があります。瀬戸内市邑久町瀬戸内市役所のある地は「尾張」と呼ばれてます。かなり昔から、そう呼ばれる土地であったようで、もしかしたら尾張系の氏族が住んでいたのかもしれません。

※追記…旧事紀には、清寧天皇の時、尾張覚(サメ)連に命じて、吉備を前中後に分割した、という記事があるそうです。奈良時代の分国とは別のようですが、 尾張覚連ってかなりの有力者だったのでしょうか。

 

う.尾張系とされる伊福部(いおきべ)氏族がいたのか?

現在も伊福という地名が残っており、これが1番可能性があるでしょう。ただ伊福部氏族が岡山の地で繁栄・活躍したという文献は今のところ無いように思います。(都や伯耆では文献豊富ですが)

なので鳥取あたりから流れてきた伊福部の一族が岡山に住み着いたと考えるのが自然なのかもしれません。

追記:

古代の文献や木簡(平城京出土か?)には吉備(岡山とは限らず)には伊福部氏の記載が多かったようです。

 

(追記)

尾針神社の項でも記してますが、最近読んだ「吉備氏」(宝賀寿男先生著)から得た知識

濃尾にいた尾張氏は、吉備に進行・支配した彦五十狭芹彦命吉備津彦)の孫にあたり、ヤマトタケルの東征の副官だった吉備武彦命とともに東征に参加し、一部がそのまま吉備武彦命とともに吉備に移動し住み着いたのでは?と書かれてました。その部族が尾針神社・尾治針名眞若比咩神社を創ったのでは?ということです。

具体的にどの人が吉備に移動したのか?ということまでは書かれてませんでしたが、次の可能性があるかと考えられます。

①尾綱根命、尾綱眞若刀婢が移動・遷住した

②系図に残るような人ではないが尾張氏に属する人たちが遷住した

③後に伊福部氏と呼ばれる人たちが遷住した

ヤマトタケルの東征に参加したのは世代的に尾張国造の祖、建稲種だと思われますので、子の①が吉備武彦とともに遷住した可能性は十分あると思ってます。

 

(参考)

社家の姓氏-伊福部氏-

 部民制 - Wikipedia

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(宝賀寿男先生「吉備氏」)

神社訪問-2.尾針神社

京山の麓、伊福の地に鎮座してます(現在の町名は京山)。平安時代の頃には、尾治針名眞若比咩神社と対をなす神社であったのではないでしょうか?(あるいは元は1つだったのかも知れません)。祭神は尾張氏の祖、天火明命ですが、「吉備温故秘録」には眞若姫の兄(弟)の尾綱根命であったのでは?とも書かれてます。兄弟姉妹で対をなす神社同士だったとすれば、納得いく感じです。

同じ尾張氏系の氏族で、伊福の民は尾針神社、津島(福居)の民は尾治針名眞若比咩神社となって張り合ってたのかもしれませんね。

例大祭は、

尾治針名眞若比咩神社-10月26日

尾針神社-10月20日21日

と連携を感じられます。

ただ両社とも昔から現在の地にあったかどうかはかなり怪しいと思われます。この地も明治までは「栗岡宮」と呼ばれ別の神様がおられた様子。もしかしたら今の岡山城の地にあったのかも知れません。

尾治針名眞若比咩神社ファンとしては悲しいことですが、現在は尾針神社は参拝客も多く立派な本殿・拝殿を構えており、同じ式内社同士でこうも差がついてしまうものかと悲しく思ってます。

それは置いといて、こちらは境内に磐境があり土師器・須恵器が出土してることから、古墳時代から聖域として存在していたことを物語っています。

(ちなみに尾治針名眞若比咩神社の後方地(本殿の上方)には都月坂古墳、西方には七つグロ古墳がありこちらも古墳時代初期から聖域だったと思われます)

(追記)

最近読んだ「吉備氏」(宝賀寿男先生著)から得た知識

濃尾にいた尾張氏は、吉備に進行・支配した彦五十狭芹彦命吉備津彦)の孫にあたり、ヤマトタケルの東征の副官だった吉備武彦命とともに東征に参加し、一部がそのまま吉備武彦命とともに吉備に移動し住み着いたのでは?と書かれてました。その部族が尾針神社・尾治針名眞若比咩神社を創ったのでは?ということです。

具体的にどの人が吉備に移動したのか?ということまでは書かれてませんでしたが、次の可能性があるかと考えられます。

尾綱根命、尾綱眞若戸婢が移動・遷住した

②系図に残るような人ではないが尾張氏に属する人たちが遷住した

③後に伊福部氏と呼ばれる人たちが遷住した

私は、後月郡や足次山神社の存在から①の可能性も十分にあるのでは?と思ってます。

 

 

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(wikiから拝借)

 

尾針神社 - Wikipedia

http://www.genbu.net/data/bizen/ohari_title.htm

(玄松子さんHP)

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(宝賀寿男先生「吉備氏」)

神社訪問-1.尾治針名眞若比咩神社

(下記ー2018.8更新してます)

私が岡山に帰ってきて最初に訪れた神社です。

岡山の古代史に興味を持つに至ったスタートの地点であり、古代史探求の最終目的の地点でもあります。

最初、神社名の意味が全くわかりませんでした。
おじはり-なまわかひめ?
おちはりなまーわかひめ?
悩みました。そのうち勉強していくうちに、
尾治針名(おじはりな)ー眞若姫(まわかひめ)-神社だとわかりました。

「尾治針名」は尾張氏の祖先、尾綱根命ー尾治針名根命あたりを元とする尾張系氏族の名称、「眞若」は古代には割りとある名前で後を継ぐ者、とか跡取りの意味らしい、どこかの家系を引き継いだ姫ということでしょうか?

と、一応意味はわかったのですが、大問題が・・・
尾治針名眞若比咩(姫)という人は、古代には、いえ尾張氏系図にはいないのです。
尾綱根命の姉(妹)に眞若戸婢(とべ=女性首長)という人がいて
(この人は志理都紀斗売とも言われていた)
この人のことなのかな?と推測はできますが、「尾治針名」という連(むらじ)名では無かったのではないかと思います。

であれば、末裔が間違って「尾治針名」と「眞若姫」を結びつけてしまったのか、もしくは正しくて「尾治針名」連の祖であったのか、あるいは系図に残らなかった別の「尾治針名眞若姫」がいたか、ではないかと考えます。

何等、文献や神社の記録は無いのでそう推測するしか無いですが、式内社であって平安時代から確実に存在し(途中所在不明の時期があったようですが)現在も神社として存在しているということは、古代の岡山(津島あたり)に住む人達にとって、非常に重要な神様だったのだと思います。
 現在は「尾張」の影も形もない岡山ですが、尾張系氏族の人がたくさんいたのでは?と思わずに入られません。

現在、訪れる人は大変少ないようで、遥拝所・拝殿・本殿は朽ちるに任せる状態ですが(専任の神主さんも不在)、氏子の方々が新築再建に向けて頑張っておられるようです。

※2017.4月 やや小さめですが、真新しい本殿が創られました。氏子の方々に感謝でございます。

※2017.5月 なんと、小さめの本殿は仮の姿のようで、今後本殿・拝殿・参道(階段)の再建をされるそうで、寄進を募っておられます。郵便振替で寄進を受け付けておられるようで、再建に関心をお持ちの方は下記で振替払い込みができます。私も払い込みに行ってきます。

 ・番号 01320-6-105518

 ・名義 尾治針名眞若比咩神社再建総代会

 

冒頭に「最終目的」と書いたのは、この尾張氏もしくは関係氏族の推定、栄枯盛衰の記録を探し、もっと言えば「眞若姫」の実像を明らかにしたい、というのが私の岡山の古代史探求の全てなのです。

 

最後に拝殿正面にある由緒書きを記しておきます。

(読みやすいように若干修正してます)

延喜式神明帳に備前国御野郡尾治針名眞若姫神社、此れ尾治針名眞若姫命は延喜式四時祭式に国司祭祈年神2395座のうち小2207座、山陽道124座という中に備前国25座あり。その25座の中に尾治針名眞若姫神社あり、故に文明および延喜以前の社にして、延喜式に尾治針名眞若姫神、本国総社神明帳に尾治針田眞若姫神社、山本氏本に従四位下尾張針田明神と記載せる式内の神社なり。当社鎮座地西坂以東の山々を凡て半田山というは針田山を誤れるにて、針田名称は此神の御名より出たるものにして、往昔は敷ませる治も甚だ広かりしが今は津島の産土の神とはなり賜いしと正しき尊き式内の大神にぞまし座しける。

 -尾治針名眞若姫神社、式内の神世所祭の神一座尾治針名根命という、旧事紀曰く、天照国輝彦大火明櫛玉饒速日命14世孫尾治針名根連、頭書曰く、備前国御野郡尾治針名眞若姫神社、明治13年10月12日勅令第96号により神饌幣帛料供進神社に指定せらる、而して祭日は左の通り、例祭-10月26日、祈年祭-4月17日、新嘗祭-11月29日-

 

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(2010.1撮影)

 尾治針名真若比め神社 - Wikipedia

尾治針名眞若比女咩神社 (岡山市)(玄松子さんHP)

 *追記
宝賀先生の論説・著書を勉強して学んだこと、改めて考察したことを追記します。
岡山の津島・伊福界隈に跡を残す尾張氏族・伊福部氏族は・・・
兄・吉備津彦命の吉備進攻・平定から50年ほど経った頃、
景行天皇の皇子・倭健命の東国親征に随行した吉備武彦命(兄・吉備津彦命の孫)が親征を終えて濃尾経由で帰ってくる際に、吉備武彦について吉備にやってきた尾張氏族(もしくは尾治針名氏族や伊福部氏族)がこの地に住み着いたいたものであろう、と宝賀先生は推測されています。私も異論はありません。
近隣に尾針神社もあるし、伊福の地名もあるし、確かにその推測は的を射てるものだと思います。
※ただし当神社も尾針神社も明治期までは今の場所には無かったようで、決して現在の津島・伊福にそういう人たちが住み着いた、とは断定できないかもしれませんが
※もう1つ、七つグロ古墳都月坂古墳を造りこの地に蟠踞した楽楽森彦命を祖とした三野臣系の人たちとの関係(住み分け等)も気になるところではあります。
もしかしたら、製鉄遺構のある伊福あたりはそのまま正解として、金山からの金属運搬もさらに容易であった津高・富原あたりも候補に上がるかもしれませんね。

*2018.8追記
当神社の本殿、拝殿が老朽化したので氏子様方々のご寄付・ご尽力で新しく立て直されました。簡素ではありますが、しっかりと固定された造りで、これで風水害、地震に強いお社となり安心です。新しいうちが華ですので、これをご覧になられた方は是非参詣されてください。
*おまけで遥拝所の屋根も新しく葺かれ、参道に手すりが付きました
(拝殿)

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(本殿)

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