sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

神社訪問-1.尾治針名眞若比咩神社

(下記ー2018.8更新してます)

私が岡山に帰ってきて最初に訪れた神社です。

岡山の古代史に興味を持つに至ったスタートの地点であり、古代史探求の最終目的の地点でもあります。

最初、神社名の意味が全くわかりませんでした。
おじはり-なまわかひめ?
おちはりなまーわかひめ?
悩みました。そのうち勉強していくうちに、
尾治針名(おじはりな)ー眞若姫(まわかひめ)-神社だとわかりました。

「尾治針名」は尾張氏の祖先、尾綱根命ー尾治針名根命あたりを元とする尾張系氏族の名称、「眞若」は古代には割りとある名前で後を継ぐ者、とか跡取りの意味らしい、どこかの家系を引き継いだ姫ということでしょうか?

と、一応意味はわかったのですが、大問題が・・・
尾治針名眞若比咩(姫)という人は、古代には、いえ尾張氏系図にはいないのです。
尾綱根命の姉(妹)に眞若戸婢(とべ=女性首長)という人がいて
(この人は志理都紀斗売とも言われていた)
この人のことなのかな?と推測はできますが、「尾治針名」という連(むらじ)名では無かったのではないかと思います。

であれば、末裔が間違って「尾治針名」と「眞若姫」を結びつけてしまったのか、もしくは正しくて「尾治針名」連の祖であったのか、あるいは系図に残らなかった別の「尾治針名眞若姫」がいたか、ではないかと考えます。

何等、文献や神社の記録は無いのでそう推測するしか無いですが、式内社であって平安時代から確実に存在し(途中所在不明の時期があったようですが)現在も神社として存在しているということは、古代の岡山(津島あたり)に住む人達にとって、非常に重要な神様だったのだと思います。
 現在は「尾張」の影も形もない岡山ですが、尾張系氏族の人がたくさんいたのでは?と思わずに入られません。

現在、訪れる人は大変少ないようで、遥拝所・拝殿・本殿は朽ちるに任せる状態ですが(専任の神主さんも不在)、氏子の方々が新築再建に向けて頑張っておられるようです。

※2017.4月 やや小さめですが、真新しい本殿が創られました。氏子の方々に感謝でございます。

※2017.5月 なんと、小さめの本殿は仮の姿のようで、今後本殿・拝殿・参道(階段)の再建をされるそうで、寄進を募っておられます。郵便振替で寄進を受け付けておられるようで、再建に関心をお持ちの方は下記で振替払い込みができます。私も払い込みに行ってきます。

 ・番号 01320-6-105518

 ・名義 尾治針名眞若比咩神社再建総代会

 

冒頭に「最終目的」と書いたのは、この尾張氏もしくは関係氏族の推定、栄枯盛衰の記録を探し、もっと言えば「眞若姫」の実像を明らかにしたい、というのが私の岡山の古代史探求の全てなのです。

 

最後に拝殿正面にある由緒書きを記しておきます。

(読みやすいように若干修正してます)

延喜式神明帳に備前国御野郡尾治針名眞若姫神社、此れ尾治針名眞若姫命は延喜式四時祭式に国司祭祈年神2395座のうち小2207座、山陽道124座という中に備前国25座あり。その25座の中に尾治針名眞若姫神社あり、故に文明および延喜以前の社にして、延喜式に尾治針名眞若姫神、本国総社神明帳に尾治針田眞若姫神社、山本氏本に従四位下尾張針田明神と記載せる式内の神社なり。当社鎮座地西坂以東の山々を凡て半田山というは針田山を誤れるにて、針田名称は此神の御名より出たるものにして、往昔は敷ませる治も甚だ広かりしが今は津島の産土の神とはなり賜いしと正しき尊き式内の大神にぞまし座しける。

 -尾治針名眞若姫神社、式内の神世所祭の神一座尾治針名根命という、旧事紀曰く、天照国輝彦大火明櫛玉饒速日命14世孫尾治針名根連、頭書曰く、備前国御野郡尾治針名眞若姫神社、明治13年10月12日勅令第96号により神饌幣帛料供進神社に指定せらる、而して祭日は左の通り、例祭-10月26日、祈年祭-4月17日、新嘗祭-11月29日-

 

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(2010.1撮影)

 尾治針名真若比め神社 - Wikipedia

尾治針名眞若比女咩神社 (岡山市)(玄松子さんHP)

 *追記
宝賀先生の論説・著書を勉強して学んだこと、改めて考察したことを追記します。
岡山の津島・伊福界隈に跡を残す尾張氏族・伊福部氏族は・・・
兄・吉備津彦命の吉備進攻・平定から50年ほど経った頃、
景行天皇の皇子・倭健命の東国親征に随行した吉備武彦命(兄・吉備津彦命の孫)が親征を終えて濃尾経由で帰ってくる際に、吉備武彦について吉備にやってきた尾張氏族(もしくは尾治針名氏族や伊福部氏族)がこの地に住み着いたいたものであろう、と宝賀先生は推測されています。私も異論はありません。
近隣に尾針神社もあるし、伊福の地名もあるし、確かにその推測は的を射てるものだと思います。
※ただし当神社も尾針神社も明治期までは今の場所には無かったようで、決して現在の津島・伊福にそういう人たちが住み着いた、とは断定できないかもしれませんが
※もう1つ、七つグロ古墳都月坂古墳を造りこの地に蟠踞した楽楽森彦命を祖とした三野臣系の人たちとの関係(住み分け等)も気になるところではあります。
もしかしたら、製鉄遺構のある伊福あたりはそのまま正解として、金山からの金属運搬もさらに容易であった津高・富原あたりも候補に上がるかもしれませんね。

*2018.8追記
当神社の本殿、拝殿が老朽化したので氏子様方々のご寄付・ご尽力で新しく立て直されました。簡素ではありますが、しっかりと固定された造りで、これで風水害、地震に強いお社となり安心です。新しいうちが華ですので、これをご覧になられた方は是非参詣されてください。
*おまけで遥拝所の屋根も新しく葺かれ、参道に手すりが付きました
(拝殿)

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(本殿)

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