遺跡訪問-1.七つグロ古墳群

グロは、つちへんに丸と書く漢字です。

尾治針名眞若比咩神社の参道から横にそれて、西方向に20分ほど山腹をあるいたところ、南に伸びる尾根伝いにある古墳群です。

(私が最後に訪れて3年以上経つので今は山道が無くなっているかもしれません)

9つ程発見されている古墳の内最大の1号墳が1番北側(山頂に近い側)にあり、昭和50年代に学術発掘された竪穴式の石室が見える状態で存在してました。
(正確には、8号・9号墳が最北で1号墳はその南)

1号墳の造墳時期は、4世紀初頭(箸墓古墳とほぼ同時期)と推定されてます。後に記事にする都月坂古墳(1号墳)より若干早い時期だろうと考えられてます。(近藤義郎先生「吉備考古点描」

 ということは、岡山平野にある最古の古墳であった可能性が高いです。恐らく津島遺跡の地を含む岡山平野の農耕民を最初にまとめ上げた氏族の墓ではなかったかと思います。

文字的な記録は全く無いので推測しかできませんが、元々津高あたりに居た原住民とは別に、海から来た渡来人(九州あたりからか、半島から来た人たちか)が半田山の南麓に住み着き、海産物を獲ったり稲作を始めたのが、この七つグロ古墳被葬者に支配された人たちだったのでは無いかと考えます。

このあたりにある古墳は全て、当時の内海(岡山平野と児島に挟まれた浅瀬)からよく見える位置に作られていて、舟で航行する人たちを意識して造られたものだと思います。

尾治針名眞若比咩神社と直接つながるものはありませんが、岡山に居た尾張氏か伊福部氏の祖先たちであった可能性は十分あるのでは?と思います。

(新たな知見を得たので追記)

都月坂1号墳の項でも書いてますが、この古墳の盟主は、彦五十狭芹彦命吉備津彦)とともに吉備に侵攻した氏族の可能性も十分考えられます。
具体的には、三野臣や笠臣の祖となる鴨族(天孫族の流れで葛城鴨・山城鴨の同族)の楽楽森彦の一族が吉備進攻完了後、この地を居所としたのではないか?と考えます。
半田山の南側には三野臣の本拠があったようですし(岡山市御野)、この界隈には鴨族(=天孫族)の祖、少彦名神を祀る「天神社」が散在(少なくとも延喜式の頃から)すること、からです。
(ほとんどは、宝賀先生の受けウリ)
そして、都月坂1号墳よりは、弱冠七つグロ1号墳の方が先行するかもということで、この七つグロ1号墳はもしかしたら、吉備進攻・温羅征伐で活躍した楽楽森彦の陵墓であったのでは?と思うのです。
前方後方墳というのも、吉備津彦命の臣下という格に相応しいと思いますし。
そして楽楽森彦の妹の高田姫が吉備津彦命の妃となり、彦刺肩別命を産み、死後、網浜茶臼山古墳(彦刺肩別命)と操山109号墳(高田姫)に葬られたとすれば、位置的には整合が取れるな、と思うのです。
そう考えると、今の岡山市街地の古墳にもワクワクしてきませんか?

 なお、そう考えた場合は、私の好きな尾治針名眞若姫や尾張氏・伊福部氏たちは半田山南麓ではなく、今の尾針神社のある京山東麓を居所としていた、と考えざるを得ません。
今の尾治針名眞若比咩神社は(本来あった場所は不明ですが)元々、今の場所では無かったと考えるのは少々残念ですが、そういうことなのでしょう。( ˘ω˘ )
*延喜式に記述されてますのでどこかにあったことは間違いないと思います。どこだったのでしょうか?

 (参考)
七つグロ古墳群-「古墳のお部屋」平家蟹氏ブログ