sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-16.矢藤治山古墳

中山茶臼山古墳から南方向に足を伸ばすと矢藤治山古墳を訪れることができます。
穴観音~八徳寺~三十三観音像を通り抜け、車道に出て少し行くと黒住教の駐車場(道の南側)があり、そこに小さく案内板があってそこから山道に入り、帝釈天方向との分岐を左に進み、300M程で到達します。車道からは鉄塔が見えるのでちょうどそこが古墳の所在地です。ここは庚申山(こうしんやま)と呼ぶらしいですね。
山道はほぼ藪漕ぎすることなく進めますが、多少急な部分もあります。墳丘の形は全く確認できない状態で、案内板がありますが、それで古墳があることを知ることができるのがやっとの状態です。(すぐ傍に鉄塔が立ってます)
恐らく後円部頂を横切るように山道が通っていて、頂上には主体部跡らしきものがあります。(その近辺には四等三角点もあります)そこから南方に向けて前方部があるようですが、全く形は分かりません。
もうホントに、訪れて説明版を読んで納得するぐらいしかすることがありません。

さてこの古墳は、上道系の宍甘山王山古墳と同じように私を大変困惑させてくれる古墳です。そもそもこの古墳を私は、中山茶臼山古墳を調べるために吉備中山を下調べしてる時に失念してたのを思い出し、早速訪問リストに加えたものです。
当然、被葬者が誰かという想定もできてませんから、ちょっと思考が混乱しています。

問題は、
前方後円墳である(前方部がバチ型に開く、墳長約35M)
②特殊器台(型埴輪)、葺石がある
③吉備最古級の古墳の1つと思われる(弥生墳丘墓は含まない)
という点です。

説明が長くなりますので要約しますと、状況証拠からは私の理論(当然宝賀先生のそれと同じですが)では浦間茶臼山古墳や中山茶臼山古墳と同じ時期のヤマト王国に認められた古墳である、としか言いようがありません。しかし、兄・弟吉備津彦と同じ時代に同じ吉備で活躍した人、というのは皆目検討もつきません。
考えられることとして、
①ヤマト王国に侵攻された吉備側の首長だが、服属し王国に忠誠を誓ったので、死後陵墓は前方後円墳の築造が許された。
②進攻した吉備氏の兄・弟以外の親族がいたか、もしくは彦狭島(弟・吉備津彦)の妻(妃)の墓である。
ぐらいしか思いつきません。

①は確かに有り得なくも無いし、墳丘サイズとしても違和感はありません。温羅がそうだったかもしれませんし、それ以外の首長だったかもしれません。また首長が女性だったということも考えられます。
ただ、そうであれば、ヤマト王国側の人間になったのですから、名前、もしくは事跡が残っていないのもおかしな話に思えます。前方後円墳が造られるくらいなんですから。

で、私としては②の線で考えたいなと思っております。中山茶臼山古墳の被葬者である彦狭島には景行天皇皇后となった稲日大郎姫(稲日大郎姫の陵墓は播磨の日岡陵)ほか複数の子が伝えられていますが、
肝心の妻(妃)が伝えられていません。
皇后の母であれば前方後円墳に葬られても可笑しくないですし、墳丘サイズも違和感がありません。主体部からの出土品も女性被葬者らしいものに感じます。もし妻の陵墓であるとすれば、恐らく吉備進攻前に播磨で準備をしている際に娶った人なのではないかと考えます。
(それだったら陵墓は播磨に造られるべき人なのでは?と言われたらそれも当然かとは思いますが)何か理由があって夫の陵墓の近くに葬られたんでしょう。というか夫よりも先に亡くなられて、夫の傍らに置いておきたくて矢藤治山古墳が造られたのかも知れませんね。

なんて妄想を抱きながら、矢藤治山古墳を訪問してまいりました。
今でこそ周りに樹木が生い茂って眺望が得られませんが、当時は吉備中山山塊のど真ん中にあって北方以外はよく見渡せる場所だったのかもしれませんね。
(矢藤治山古墳-Wikipedia)

(古墳に至る案内標識)

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(古墳説明板)

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(後円部頂付近三角点)

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遺跡訪問-15.中山茶臼山古墳

いよいよ下道氏の巡礼に入りました。
まずは、下道氏初代の彦狭島命(稚武吉備津彦命、以降弟・吉備津彦と呼びます)の陵墓、中山茶臼山古墳からスタートです。
この古墳は吉備津神社の真上にある感じなんですが、ちょっと話はそれますが、吉備津神社の祭神は「大吉備津彦命」すなわち兄・吉備津彦命なんですよね。でもその上にあるのは弟・吉備津彦の陵墓。
(世間一般的には皇族・四道将軍大吉備津彦命の陵墓とされていますが…)
私の気持ちとしては、このねじれは解消してほしいなと常々思っています。つまり備中一宮・吉備津神社祭神は弟・吉備津彦備前一宮・吉備津彦神社の祭神は兄・吉備津彦となると嬉しいな、と。

で戻りますが、こちらは宮内庁治定の陵墓なので、鉄線が張られていて中には入れません。その代わり立派な拝所が設けられています。でも拝所から見える森は古墳そのものではありません。もう少し奥に前方後円墳があります。で墳丘は全く見えないのかというと、北側に行くと鉄線に沿って山道があってそこから墳丘を見ることができるのです。(後円部を前方向とすると墳丘の右側が見えます。逆に左側は道が無いので全く見えません)
さらには、ちょうど後円部の真下あたりに穴観音様と呼ばれる赤い布をかけられた岩群があってその場所へは鉄線を越えて中に入れるので少し後円部に近づいて見ることができます。(当然、岩群の周りには鉄線は張られてますが)
山道からは、前方部からくびれ部にかけての稜線とさらに盛り上がった後円部をしっかりと確認できます。なので、こちらの古墳を訪問したら山道からしっかりと墳形を確認してくださいね。下からでも良好に形が確認できます。
主体部の発掘調査はされてないですが(盗掘も無いと思いますが)、そこからはどんな副葬品が出てくるんでしょうね?将来的に調査がされることを願ってやみません。

墳丘には葺石と特殊器台型埴輪が存在したと認められているようで、兄・吉備津彦の浦間茶臼山古墳とほぼ同時期の陵墓と推定できます。
ここからは北・北西に広がる高松・足守平野を一望できたであろうし、(逆に南の海側からはこの古墳はあまり見えないように思います)
この界隈を治めた弟・吉備津彦に相応しい陵墓ではないでしょうか。

中山茶臼山古墳:Wikipedia

 

(拝所)

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(後円部と穴観音様)

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(前方部・くびれ部)

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(もっと寄った後円部)

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遺跡訪問-14.一本松古墳

上道氏巡礼の締めをした後ですが、私が上道氏の葦守武彦命(浦凝別命の子、田狭臣の祖父)と考えている一本松古墳を訪問しました。

この古墳は、半田山植物園の中にあって植物園に入場しないとみることができません。
※1回入場料約¥300、年間パスポート約¥1,200
私は年間パスポート持ってるので、ササっと入れました。

植物園自体は盛花の時期でもなく、紅葉には少し早い感じで特段見るものは無かったのですが、マリーゴールドやバラが綺麗でした。

で古墳の方ですが、見るのにお金はかかりますが、近いし、植物園としてよく整備されてる土地だし、今回はヒジョーに楽に見られました。墳形も分かりやすいですし。(ただし全景を写真に収めるのは無理ですね)

後円部頂は高射砲陣地を築かれたため穴が開いていて主体の石棺も石槨もほぼありません。(発掘品は東京にあるようです)ササっと古墳の周りを歩いて、写真撮ってハイ、終わりって感じです。前方部あたりから岡山市街がちらっと見下ろせるポイントがありますが、風景はやや下にある展望台からの方がくっきり見渡せます。

 

で、こちらの古墳は5C中期頃かと考えられており、神宮寺山古墳の後で、玉井丸山古墳・両宮山古墳よりは先ではないかと考えます。
上道氏の系図としては、冒頭に書いた感じで推測しています。

最初、この古墳は上道氏本宗ではなく、例えば傍系の三野臣氏や笠臣氏の陵墓かも知れないな、と考え上道氏古墳巡礼から外すつもりでいました。そう考えたのは、
①ほぼ平地に神宮寺山古墳を築いた後に、なぜ丘陵に逆戻りして造墓したのか?上道氏本宗の陵墓とすれば解せない。
②古墳の形が、造山古墳の周囲にある古墳と似通っている。
③葺石や埴輪があったと認められていない。
という点からでした。
しかし、玉井丸山古墳、両宮山古墳を実見して考えが変わり、本古墳が葦守武彦命の陵墓と考えれば、①②についてはさして違和感が無くなるように思いました。だって葦守武彦命って下道氏系統っぽい名前じゃないですか?ちょうど仁徳天皇の時世で御友別命-稲速別が下道氏当主だった頃で、下道氏が吉備の主流でそれに従ったのかもしれないな、と思ったわけです。ただ③については今でも理由は全く分かりません。造墓時から無かったのか、後世に取り払われたのか、謎です。それと、平地に築かれなかったのは、後代(稲生臣、田狭臣)が赤坂平野に本拠を移していったことと同じで、例えば上道平野に災害が起きたとかが理由なのかもしれません。
副葬品に鉄器が多いのは、同じ半田山の西側に居たであろう尾張系氏族(たぶん伊福部氏)と親交が深かったのでは?と思っています。

てなわけで、一本松古墳の訪問を終え、上道氏の巡礼も一旦終えて、次からは下道氏の巡礼を始めたいと思います。
まずは、弟・吉備津彦彦狭島命の中山茶臼山古墳から!

(前方部から後円部方向)

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(後円部頂、高射砲陣地跡)

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一本松古墳:岡山シティミュージアムHP

神社訪問-3.高蔵神社、本宮高蔵(高倉)山

吉備上道氏の古墳訪問の締めとして(一本松古墳残してますが)、高蔵神社に訪問しました。なんで高蔵神社?吉備津彦神社じゃないの?と思われる方も多いと思いますが、理由は後述。

で、現在ある高蔵神社には既訪問なので、今回は神社経由で本宮高蔵山(頂上)に頑張って足を伸ばしてみました。ただ1点、神社から目的地まで地図で見ると道がない…ある程度進めば高蔵山頂上に車で上がれる道があるのは分かってはいたものの凄く不安…ネット情報ではちゃんと林間道があるみたいだけど今現在でも通れるのかそれも不安…と心細さを感じましたが、頑張って神社の裏手から進んでみました。

そしたら、(経過の写真は載せませんが)地図に記載のなかった林間道は割とすんなり進めて、林を抜けてから高蔵山頂上車道に出る山道が草ボーボーで、それを何とかくぐり抜けて車道に出て、牟佐の登山口から1.5時間ほどで高蔵山頂上にたどり着きました。良かったー。

で、想像してた通り本宮らしきものは存在しませんでした。

頂上には3つの電波塔と、ライオンズグラブが作ったであろう看板と本宮があったと書かれた教育委員会の看板のみ。しかし付近を散策してみると、ハンググライダー離陸場があってその途中に磐座のような石群がある。「もしかしてここ?」の心境。

ただ、ここからの南方、西方の眺望が抜群でした。なので、この石群が本宮の磐座なのかな?と一人で納得しました。説明看板も無く、注連縄も無く、少し拍子抜けではありましたが。もし他に隠れた磐座がこの頂上の界隈にあるのでしたら、どなたか教えてくださいませm(_ _)m

ということで往復3.5時間ほどで牟佐の登山口まで戻ることができました。

 

高蔵山は吉備上道氏の聖山、高蔵神社は上道氏始祖をお祀りするお社だと、私は考えています。(勝手に断言( ˘ω˘ ))

初祖の吉備津彦命からでは無く、2代目日子刺肩別命の頃からかもしれませんが、この聖山に登って国見をしたんだと思います。

そして浦間茶臼山古墳界隈の平野から、操山北側の平野まで見渡して吉備(備前)の経営計画を立てたに違いないと思います。

*上道氏繁栄の最後の首長だったであろう田狭臣がこちらの麓に両宮山古墳を造ったのも、自然なことだと考えます。

高蔵神社は現在の祭神が、神武東征に随伴し尾張氏の祖とされている高倉児(高蔵下)とされていますが、それは後世に高蔵山の名から当てはめたのでしょう。本来は、吉備氏の祖「大己貴命」や「大物主命」でありそれらと共に「吉備津彦命」もしくは「大吉備諸進命」が祀られていたのではないでしょうか。

現在の備前一宮「吉備津彦神社」がある吉備中山は下道氏の初祖、弟・吉備津彦命彦狭島命)の陵墓(中山茶臼山古墳)がある下道氏の聖山であり、上道氏の聖山は、吉備中山ではなく、こちらの高蔵山であるはずです。

とは言え、吉備津彦神社は、千年近く備前一宮として尊崇されてきたのですから、それを否定する気持ちは全くありません。私も年始にはお参りさせていただいております。

ただ、こちらの高蔵山も備前を発展させた上道氏が聖山と崇めた場所で、吉備津彦神社と同じように多くの人々にお参りいただけたら嬉しいなぁ、と思っています。

同時に、現在上道氏が聖なる山と崇めた証が何も残ってないのは、残念に思っておりますが。

(高蔵神社・本殿)

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(本宮高蔵山・説明看板)

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(頂上、磐座群かな?)

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(南方、岡山平野)

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遺跡訪問-13.両宮山古墳

備前最大の前方後円墳、両宮山古墳(墳長206m)は兄・吉備津彦命の陵墓と思われる浦間茶臼山古墳と同じく国の史跡に指定されてます。

初代と衰退直前の代の陵墓が共に国指定とは胸熱…いや誇らしいことなんですけどね。

流石に備前一の古墳だけあって見た目も美しく、見やすいように整備されてる…と思いきや、墳丘に至る道がショボいこと、ショボいこと。見学通路はあるんですが「ここ私有地じゃないの?」と思ってしまう草ボーボーの道。(まぁ進むに困難な道ではないですが)発掘調査から月日が経つとこんな状態なんですね。

で、前方部両宮神社に至る参道を発見し、無事お参りできました。(両宮神社参道は見学通路からしか行けません)

次に、神社から墳丘歩いて回れる道が無いかな?と探してみましたが、無いんですね。墳丘は外から眺めるしかないと悟り、それからぐるりと一周して見学終了です(木々ボーボーで墳形は全く分かりませんが)。途中陪塚の和田茶臼山古墳も登りました。

この5世紀後半造墓と思われる両宮山古墳は上道氏臣田狭(たさ)の陵墓と思われます。墳丘に葺石や埴輪が認められないのは雄略天皇の治世下で、濡れ衣を着せられて厳しい弾圧を受けた証拠ではないかと考えます。

※濡れ衣とは、吉備の古代史-6 兄・上道系統をご覧ください

恐らく田狭臣は領民から崇拝され、またヤマト王権の中でも確たる地位を築いていた、上道氏中興の人だったのだと思われます。墳丘の大きさ、二重周濠、雄略天皇の陵墓と思われる河内大塚山古墳と同じ企画で造られていること、がその理由です。

※巷の資料には、仁徳天皇の陵墓と知定される大仙陵古墳と同一企画とよく書かれてますが、大仙陵古墳よりは河内大塚山古墳の方が相似しています

そして中興したと同時にヤマト王権に反抗したとして懲罰的に墳丘の装飾を省かれてしまったんだと思います。後円部の主体部の調査はされてないそうなので、ここに埋葬すらされて無いのかもしれず、それで埴輪等がないのかもしれませんが。また上道氏は以後浮上できなかったようで、田狭臣の子孫の陵墓は規模を縮小しています。(両宮山・高月古墳群wikipedia

主体部の調査が行なわれて、埋葬の有無がはっきりすると嬉しいですね。この古墳に埋葬されたのか?任那で亡くなられたのか?上道氏、吉備氏の謎解明のために大事なことだと思います。

立派な美しい古墳でしたが、上道氏のその後の状況や、古墳の現在の姿を考えると少し物悲しい雰囲気の漂う遺跡でした。

 

-両宮山古墳 wikipedia

 

(前方部東角と内濠)

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(前方部両宮神社鳥居)

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(後円部、南→北方向)

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宝賀寿男著 巨大古墳と古代王統譜

(様々な角度からの巨大古墳の比定と古墳築造企画の解説が掲載されています)

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遺跡訪問-12.玉井丸山古墳

ここは墳丘そのものが削平されて瀬戸町郷土館や大学の建物が建てられていて、さらに昔は小学校があったそうですが、墳丘にもすぐに上がれます。墳頂は約130mのようですが、正直、どこからどこまでが墳丘かはよく判りません。

なので"古墳"という雰囲気は全くありません。強いて言えば、後円部斜面にある「がらん様」と言われる石塔群とその近辺にあった石室を構成していたかもしれない石らしきものがあったくらいで、墳形も明確にはわからない状態、遠くから見れば"前方後円墳"かも知れないね、という感じでした。

しかし、郷土館(瀬戸町の歴史的遺産の展示館)ではしっかりと埴輪や土器、鉄滓などの発掘物が見られますのでここを訪問すれば、古代の雰囲気に浸れます。(ただし開館日は毎月第2・4日曜のみ)

で、こちらの古墳については行く前から感じていましたが、実際訪れてさらに疑問を深めました。

①金蔵山古墳、神宮寺山古墳に続き、両宮山古墳の前にあたる古墳と思われますが、造られた位置がちょっと中途半端な印象である

②私の比定(=宝賀先生の比定でもありますが)では葦守武彦命の陵墓とさせていただいてますが、何となく違和感を感じる

です。(後述で追記しています

①については、

浦間茶臼山古墳と操山古墳群、両宮山古墳を結ぶエリアから外れているわけではないけれども、南と北の平野からは少し離れた山間部の狭い平地に在り、首長の威光を輝かせるには少々役不足の地に思われます。なぜこの場所に?の想いを拭えません。そこで考えてみました。

・それまでの中心地であった上道平野に何か天災が起き(地震津波、洪水など)、一時的にでもコメの生産が不能になったため、やむを得ずこの地を開発し、次の代には赤坂平野を開発し拠点を移していった。

・上道氏の本宗以外にも力を蓄えた氏族が台頭し(例えば上道氏と婚姻同族化していた三野氏)上道平野の支配を奪っていった。もしくはヤマト王権の直接支配の力が強くなり、上道平野から追い出されていった。

そういう理由があって急遽、止む無くこの狭い平地に拠点を移していったのかもしれませんね。現時点では、そう考えておきます。

②については、

神宮寺山古墳に継ぐ古墳である、という点と上道氏の本宗系統が浦凝別命-葦守武彦命(-稲生臣-田狭臣)となっていることでの比定ですが、"葦守"という名が下道氏の系統の人の名(通称)で、上道氏のこの代の人の名は別にあるのではなかろうか?という疑問です。

まぁ持論があるわけではなく、私の単なる疑問なのですが、これからもこの点については勉強していきたいと思っています。

追記:この古墳と両宮山古墳を実見して考えが変わりました。玉井丸山古墳は田狭臣の父"稲生臣"の陵墓で、葦守武彦命の陵墓は神宮寺山古墳の北にある一本松古墳と現時点では考えております

なお、この古墳の主体部から発掘されたものはなく(主体部が発見されたかも不明ですが)、円筒埴輪が採取されたのみのようで、もしかしたら上道氏の衰退がこの頃から始まったのかも知れないと思わせる現状であります。

玉井丸山古墳(瀬戸町観光文化協会)

(墳丘手前の石碑)

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(後円部斜面のがらん様)

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(古墳遠景-後方部左後方から)

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遺跡訪問-11.宍甘山王山古墳

完全に存在を忘れていた宍甘山王山古墳を訪問しました。

忘れていたくらいですから比定はできていません。

(こんな感じでは?くらいの推測は後ろで)

東岡山駅の東北、新幹線のトンネルが通っている山(宍甘山?)のほぼ頂部にあります。麓からは古墳の姿は見えません。

で、こちらはまず墳丘に至る山道がわかりづらいです。

というか新幹線高架に近いふれあい公民館?の下からの山に入っていく道がありますが、これが途中で雑草が生い茂って行けない。

(藪漕ぎする勇気があれば行けると思います)

仕方ないので少し北に移動して民家の間の道を入っていけば先程の山道とつながる道がありましたので、そこから登れました。

(も少し北に、他にも山道への入り口はあるようです)

この山道は途中までコンクリートで固められた道でその上に落ち葉が堆積してる感じで、しばらく登ると左手に大きなブドウ畑が見えてきます。その畑が見える少し手前に右に上がる道があり、それが古墳に至る山道でした(コンクリート舗装はされてません)。

さらにしばらく登るとくびれ部から後円部に山王社が見えてきます。

お参りして墳丘の写真を撮って参りました。

 

この古墳は困りました。比定すべき明確な人物が思い当たりません。

訪れて実感できましたが、墳形は吉備津彦命の浦間茶臼山古墳と同じ形です。つまり初期の古墳に近いものです。そして採取された埴輪は都月型よりやや新しいものだったらしいです。

先の車塚古墳を吉備建比売の陵墓ではないかと推測しましたが、この古墳の存在を思い出した時、こちらの方が吉備建比売の陵墓に相応しいと思ったのですが、

※思った理由は、①功績のあった皇族・倭健命の妃であれば前方後円墳であってもおかしくない②金蔵山古墳・車塚古墳とともに上道平野を見下ろす古墳である、です

墳形・埴輪から考えると初代・吉備津彦命か2代目・日子刺肩別命の頃の人の陵墓ではないか、となってしまうのです。

また墳長がやや小さいのも比定を困難にする要因です。

※困難な理由は、初代か2代目の男子で首長になれなかった系図に現れない人が居たか、同じく系図に現れない女子が居たか です。

なので現時点では、

①吉備建比売の陵墓で、墳形は浦間茶臼山古墳よりも倭健命の津堂城山古墳に相似、埴輪は吉備建比売の時代よりも少し古いものが混じっていた(先行して作られていた)と考える。

②2代目・日子刺肩別命の兄弟姉妹で系図に現れない人の陵墓であった。(日子刺肩別命の網浜茶臼山古墳が穴海からよく見えた様に、この宍甘山王山古墳も大多羅方面の穴海からよく見えたと思われます)

と考えておき、さらに勉強して考察を深めたいと思っています。

ただ、浦間茶臼山古墳とも相似した前方後円墳で、浦間茶臼山古墳より後のものとなれば、吉備氏(上道氏)の古墳であることは間違いないと、ここは割りと自信を持って思っています。

宍甘山王山古墳(岡山シティミュージアムHPより)

 

(古墳遠景)

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(後円部山王社)

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