sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-10.備前(湯迫)車塚古墳

倭健命の東征に随行した吉備武彦命の母or妻or妹・吉備建比売の陵墓と思われる備前車塚古墳を訪問しました。

(今回デジカメが一時故障したため写真ありません)

(被葬者が、恥ずかしいから写真を撮るな!と警告されたのかも?)

事前にネット情報を調べたら「道がわかりにくい」と載ってたので、難航を覚悟して行きましたが、そんなこともなく。

四御神の大神神社あたりから北に坂を上がると、一般的な地図に載ってる池の南に「車塚公園」があります。そこから(明確な目印は無いですが)古墳に向かう山道があるのでそれを登れば分かりやすく古墳に辿りつきます。もちろん急勾配できついですが、藪漕ぎするようなこともなく、細いですがしっかり固められた道で、途中から模造の木の石段があり、またベンチもありますから迷わず登っていけます。

※4つある鉄塔のうち1番東のもののさらに東から登っていく感じです。たぶん3・4番目の鉄塔あたりからも登山口はあると思います。

墳丘にたどり着き前方部・後方部を散策するのは草木が生い茂り、藪漕ぎしなければならない部分もあります。また下りも急で落ち葉も多く滑りやすいですから、ここを訪問する際は、しっかり山登りする服装で行った方が良いです。(重装備は不要ですが(^^))

墳丘・墳頂は一応歩いて回れますし、形も何となくわかりますが、葺石以外は特に目を見張るものはありません。訪問時と退去時にしっかりご挨拶されると良いと思います。

 

記事の最初に推定の被葬者を記しましたが、この古墳の特徴は、

①4C後半の前方後方墳である

②鉄製品も出土してるが、それよりも三角縁神獣鏡の出土枚数の多さに注目。

③この山と操山に挟まれる上道平野(ほぼ現・中区)を見下ろせる古墳である

という点からの推測です。

 

①は、資料等には4C初期、吉備最古の古墳という資料が多いですが、前方後方墳という形や出土鏡の同型鏡の出土地から見て50年位は下がる4C後半、吉備武彦命の時期ではないかということ、

そして前方後方墳前方後円墳の1つ格下の陵墓で、吉備氏の場合は、首長の親族(または配偶女子)もしくは配下の氏族の陵墓ではないかと考えます。

吉備武彦命の母や妻の名前は伝わってないようですが、妹は倭健命の妃、吉備建比売(吉備穴戸武媛)です。私は妹の線が強いと思っています。

※宍甘山王山古墳を訪問して考えが変わりました。こちらは今のところ吉備武彦命の母か妻の陵墓と考えておきます。

②の三角縁神獣鏡出土から、年代を遡上して捕らえられているのではと思いますが(卑弥呼の鏡との関係上)、古墳時代が始まってから(言い換えれば崇神天皇の時代以降)の三角縁神獣鏡ほぼ国産(仿製)でヤマト朝廷の版図拡大に伴う服属儀礼で配布されたものでは?と考えます。吉備武彦命はそれを配布する側の人だったので、その親族は沢山の配布用の鏡を持っていたのでは無いか、という推測です。

③は、金蔵山古墳(吉備武彦命)とともに上道平野を見下ろし、勢力の誇示と見られるので、吉備武彦命に近い人ではないか?と。

麓にある大神神社は、その陵墓を護持・祭祀する遥拝所として古代から存在しているのかもしれません。(少なくとも延喜式に載ってます)また先記事の「神宮寺山古墳」は、この古墳や金蔵山古墳とともに、上道平野を守護する「西の要」として作られたのかも知れませんね。

 

備前車塚古墳 - Wikipedia

(今回は写真ありません)

(後日遠景を撮影しました)

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遺跡訪問-9.神宮寺山古墳

倭健命の東征に随行した吉備武彦命の子、浦凝別命(兄・吉備津彦から見て曾孫)の陵墓と思われる神宮寺山古墳を訪問しました。

古代には三野と呼ばれた地で旭川の東岸に位置したと思われ

旭川の一番大きな流れが岡山総合グラウンド辺りを流れていたとしてです)、今は岡山市街地の中に位置する前方後円墳(150m)です。上道氏のテリトリーのほぼ西端で、上道氏首長の陵墓としては少し西に寄り過ぎの感は無くもありません。

それまで上道氏首長の前方後円墳は、山上・丘陵地に自然地形を利用して墳丘を形作っていたのですが、この代になって(小さな丘であったらしいですが)ほぼ盛り土で墳丘を整形しているのが大きな変化です。決して洪水の少なくないこの平地に墳丘を築き、それが今でもほぼ形を保っているのは凄いことだと思います。

吉備武彦命から続く上道氏の繁栄がこのような大工事を可能にしたのかもしれませんし、もしくは同じ代の下道氏の首長・御友別命が応神天皇の助力を得て繁栄し、巨大墳墓を作ったのに同調して(こちらもヤマト王権の支援を得て)今までにない墳墓を築けたのかもしれません。

主体部は十分には調査されていないようですが、副室等からは金蔵山古墳に匹敵するくらいの鉄製品が出土しています。浦凝別命の"凝"は金属鍛冶を司ったという意味であり、稲作に加えて鉄武具・製品を大量に作る、経済基盤にしたのであろうと推測されます。

この頃が上道氏、下道氏ともにブイブイいわせて大繁栄した時期であると思われますし、後に増長し雄略天皇の抑圧に繋がったのではないでしょうか。次代(玉井丸山古墳)・次次代(両宮山古墳)を最後に上道氏テリトリーからは大型前方後円墳は消えます。

神宮寺山古墳 - Wikipedia

(古墳遠景(旭川土手から後円部墳丘))

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(後円部頂・天計神社)

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遺跡訪問-8.金蔵山古墳

彦五十狭芹彦命(兄・吉備津彦)の孫であり、倭健命の東征に随行した、吉備武彦命の陵墓と思われる金蔵山古墳を訪問しました。

こちらは操山ハイキング(トレッキング?)コースの中にあり、そんなに重要な見学ポイントの扱いは受けていないものの、しっかりと説明看板や案内標識が立っているので、距離は少し歩かないといけないものの、割とわかりやすく行ける場所にありました。

しかし、平成になってから何度も調査されているものの後円部墳頂に赴く道はあまりはっきりしておらず(古墳に上がる道はこれしかないように思われました)、また林の中にあるため、古墳の輪郭・全体像はわかりにくい状態になっており、これまでの上道氏関係の古墳と同じように不遇な扱いを受けている印象でした。

元々山の中腹に作られていて、今は林の中に埋もれているのも、存在がわかりにくく、その偉大さが伝わりにくい要因なのでしょうね。

主体部の石室は既に盗掘を受けており、盗掘されたままの状態になっているのも少し物悲しさを感じます。

盗掘されたもの以外の発掘物は文献をご確認いただけたらと思いますが、倭建命の陵墓と推測される津堂城山古墳と似た形象埴輪、鍬形石、変形神獣鏡を出し、他にも豊富な鉄製品・武具が発掘されており東征に随行した吉備武彦命の陵墓らしい副葬品がでているようです。

※平野部にある神宮寺山古墳も部分的発掘ながら大量の鉄製品を出しており、こちらも同時代の大首長の陵墓かと思われますが、金蔵山古墳の方がわずかに先行し、出土品の種類も豊富であるようです。

吉井川に近い浦間界隈から操山・龍ノ口山・高蔵竜王山の麓に広がる上道平野(原岡山市中区・東区・赤磐市山陽町)に拠点を移し吉備の地を豊かにしながら、同時に大和王国の更なる領土拡張に力を貸す上道氏の日毎の繁栄が見えるような湊茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳、金蔵山古墳でした。(そして神宮寺山古墳の頃に絶頂を迎えるのでしょう)

※この金蔵山古墳のある辺りの地名は、沢田字竜王というらしいです。近くには高倉山があるようですし、古墳の森ふれあい広場には八大龍王妙見菩薩の碑もありますので上道氏に関する陵墓であることは確実ではないかと思います。

 

操山古墳群 - Wikipedia

(後円部墳頂に向かう山道)

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(後円部墳頂・盗掘された主体部石室と思われる穴)

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遺跡訪問-7.湊茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳と操山109号墳

既出記事で彦五十狭芹彦命(兄・吉備津彦)の子、日子刺肩別命の墓ではないかと書いた湊茶臼山古墳(125m)。そして近くにあるちょっと気になる網浜茶臼山古墳(92m)と操山109号墳(74m)を見てきました。

茶臼山古墳は、操山というか東山の南側、古代では児島半島側から見れば操山山系の西の岬

(古代は今の児島湾の数倍広い中海が広がっていました)

に位置するところに位置する古墳で、行くまでは神宮寺山古墳のようにあまり高くないところにあるのかと思ってましたが、何の何の、金蔵山古墳と変わらないくらいの高さにあるんですね。

ここも発掘調査からは結構年数が経過しており、何の看板もなく雑然と古墳らしきものが広がってました。(唯一くびれ部辺りから墳丘に上がれる整備された道がありましたが)

今は雑木林で視界は開けていませんが、古代には児島と瀬戸内海がよく見渡せる風光明媚な場所だったのだと思われます。

しかし、この古墳の最も困った点は、調査の結果、主体部には何も埋葬されていなかったことであります。

宝賀先生も一応の比定として日子刺肩別命の陵墓とされていますが、この古墳の築造時期が金蔵山古墳よりも下る時期に作られた可能性もあるという調査結果が出ており、

もしかしたら、上道氏の別の人物の陵墓として作られたのかもしれない、そしてその人物は不慮の理由でここには葬られなかったのかもしれない、と今は思ってます。

湊茶臼山古墳 - Wikipedia

 

そしてちょっと気になると前述しました網浜茶臼山古墳なのですが、この古墳は浦間茶臼山古墳と同じく箸中山古墳(箸墓古墳)と相似形(1/3規模)で、近くに操山109号墳という前方後方墳前方後円墳と書かれた資料が多いですが)があり、こちらが日子刺肩別命の父、彦五十狭芹彦命の妃となった高田姫(七つグロ1号墳or都月坂1号墳の主の楽々森彦の妹)ではないかと考えられるので、築造時期からも考えて、網浜茶臼山古墳が日子刺肩別命の陵墓ではなかったか?という気がしてきたのです。やや全長が短い気もしますが。

この網浜茶臼山古墳は、古墳全体が東山墓地になっており、古墳としての境界や説明看板が全くない状態なので「古墳を訪れた!」という感想を全くもてませんでしたが(写真も遠景をかろうじて撮影したのみ)、立地としては湊茶臼山古墳より更に岬の西端にあり児島と瀬戸内海がさらによく見渡せる位置にあり、母とともにここに眠られてるのかもしれない、と思いました。

※操山109号墳自体は、さらに歩いて訪れる気力がなくなったので、遠景からの写真のみに留めました。また別の時期に訪れたいと思います。

網浜茶臼山古墳-古代吉備文化財センター

 

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(湊茶臼山古墳、南西方向から後円部を望む)

 

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(東山から南西方向)

遺跡訪問-6.浦間茶臼山古墳 と竜王宮神社

(H30.3再訪→下に記事あり)

備前ではこの時期としては最大(推定全長138m)で最古形式(4C初)の前方後円墳箸墓古墳の1/2の規格で造られてる、とすれば崇神天皇四道将軍彦五十狭芹彦命(兄・吉備津彦)の墓でしか無いでしょう。と宝賀寿男先生も私も思ってます浦間茶臼山古墳、訪問しました。

しかし古墳の付近には何らの看板もなく、古墳と思われる周りをグルグルしましたら、後方部に当たる公園を発見しそこに説明看板がありました。(後に周辺にも小さな案内標識があるのを発見しましたがこれじゃわからんだろう?と言いたくなるものでした)

Wikiの写真では後円部頂も簡単に行けそうな感じでしたが、草や木が生い茂ってとても無理な感じ(それでも根性で登りましたが)

何枚か付近と全景の写真を取って終わりましたが、特に何のありがたみもない現状は見ていて哀しいものでした。時代の移り変わりは無情なもの。吉備津神社等では下にも置かれぬ存在である吉備津彦の墳墓がこんな有様か~。

「ここは吉備津彦の墓だぞー!」と叫びたい思いでした。

 

けれど思わぬ発見もありました。

少し北に、新幹線高架をくぐった妙見山麓に「竜王宮神社」なるものがあったのです。古代吉備氏のテリトリーには竜王山が少なからずあり、竜王と名のつく神社であれば吉備氏ゆかりの神社である可能性が高いと思われるからです。(ただし神社名が古代から存続してるものであれば、ですが)

神社には由緒書きのようなものが無かったので正確なことはわかりませんが、きっと吉備津彦に関係する神社だ!と信じて、浦間茶臼山古墳にも参拝したことを報告しました。

やっぱりここは、兄・吉備津彦が住んでた土地なんですよ。

奈良の巻向に似た雰囲気もあるし、付近は赤磐市の方にも岡山市中区の方にも平地が広がってますし、吉備を平定したばかりの頃の兄・吉備津彦はとりあえずここに落ち着いたんですよ。そして子・孫の代になって操山麓や高倉山・竜王山麓に移動したんですね。そんな感想を持ちながら帰途につきました。

(前方部公園脇の説明看板)

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(後円部頂あたり)

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(全景。北→南方向)

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竜王宮神社)

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(H30.3再訪記事)

冬の終わり(というか桜の咲く頃)に吉備氏古墳訪問完了のお礼に再訪しましたが、やはり古墳は冬に訪れるのが良いですね。雑草が無く墳丘の形がはっきり分かるから見てて嬉しい。やっぱりこの頃にこの規模の前方後円墳を築いた兄・吉備津彦の威光をしっかりと感じられました。(地元の方がしっかり草刈りされてるからでもありますが)

兄・吉備津彦の御霊はここにはもうおられないかもしれませんが、お礼と末永くこの地に安らかに眠られることを祈りました。

(後円部頂)

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 (後円部→前方部)

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浦間茶臼山古墳 - Wikipedia

吉備の古代史-11 上道氏関係の補足

兄・彦五十狭芹彦命とその直系の子孫の廟は皆前方後円墳です。

しかし同時期と考えられている吉備の古墳には前方後方墳も少なからずあります。

前方後円墳は皇族に近い氏族、吉備で言えば兄・彦五十狭芹彦命の上道氏、弟・彦狭島命の下道氏の直系は前方後円墳であり、傍系あるいは配下氏族は前方後方墳である場合が多いです。前方後円墳になるか、前方後方墳になるかの違いは簡単に言ってしまえばそういうことです。

備前車塚古墳は、吉備武彦の妹、穴戸武媛(倭健命妃)の可能性があり多数の鏡(三角縁神獣鏡含む)を出土しています。

岡山平野の初期古墳として都月坂1号・前方後方墳、七つクロ1号・前方後方墳がありますが、これは三野臣の祖、楽々森命そしてその子の留玉臣命の墓である可能性があります。この界隈には、先の記事でも描いてますが尾針神社、尾治針名眞若比咩神社がありますが楽々森命、留玉臣命の子孫の三野臣が主たる地を半田山の東方に移したことで今の伊福・津島の地が尾張氏もしくは伊福部氏の関係者の居住地になったことから祀られたのではないかと考えます。

※先の記事で尾張地方の尾張氏の一部が吉備武彦の東征を共にし、そのまま吉備まで随行したことを書いてます。

尾張氏・伊福部氏の関係者が住み、尾針神社、尾治針名眞若比咩神社が建てられたのは応神朝以降か、さらに後代の欽明朝の頃かもしれません

 

そして楽々森命の姉(妹)である高田姫が兄・彦五十狭芹彦命の妃となり

日子刺肩別命(湊茶臼山古墳被葬)を生みましたが、その高田姫の墓が操山109号・前方後方墳ではないかと考えます。

また、明確な比定はされていませんが、神宮寺山古墳(前方後円墳)、一本松古墳(前方後円墳)は上道氏直系の浦凝別かもしれませんが、それ以外の三野臣の吉備兄彦、吉備弟彦、鴨別などの可能性もあります。(応神朝以降の三野臣は吉備直系と扱われていたかもしれません)

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-10 吉備氏と吉備津・吉備津彦神社

現在は、

備中一宮・吉備津神社主祭神・・・大吉備津彦大神

備前一宮・吉備津彦神社の御祭神・・・大吉備津彦命

となってます吉備の神々。(備後は省きます。ご容赦)

先の記事でも書きましたが御友別命以降、吉備氏の本宗は下道氏となり、

兄・弟の2系統が下道氏系統に1本化されたため、初祖の兄・彦五十狭芹彦命はしっかりと残ってはいますが、吉備武彦命や日子刺肩別命、御友別命など全て同系統の一族となっており、

(そしてなぜか弟・彦狭島命は影が薄い)

下道氏の聖山であった吉備中山が吉備(備前・備中)の神体山となり、備前一宮・備中一宮が寄り付くことになりました。

弟・彦狭島命の廟(中山茶臼山古墳)があるので備中の神体山であれば十分なところ備前の神体山でもある、という不思議な状態。

というのが今の吉備(=岡山)の実態なのです。

では上道氏の、備前の聖山はどこにあったのでしょうか?

備前一宮であった阿仁神社(そしてかつて神社のあった山)も兄・彦五十狭芹彦命に関係があったのかもしれませんが、それよりも、今は岡山市赤磐市のほぼ境にある竜王山・高蔵山が聖山であったと思われます。そしてそれを祀るのが高蔵神社。

(付近には浦間茶臼山古墳、金蔵山古墳、両宮山古墳があります)

 

もちろん今の、備前一宮・吉備津彦神社がまがい物だと言いたいわけではありません。吉備津彦神社も平安時代以降約1000年の歴史を持った由緒ある神社で、背後の竜王山も古代祭祀の地であったようですから、祀る意味のある場所だと思います。

ただ本来の聖山であった高蔵山・高蔵神社も古代の吉備(備前)を治めた大切な場所であったはずなのです。備前で暮らす皆さんにもそのことを、少しでも心に留めておいていただけたら、兄・彦五十狭芹彦命や上道氏の神々も喜ばれると思うのです。

 

(高蔵神社・本殿)

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宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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