古代史考察-1.岡山の尾張氏 その1

私の1番大きなテーマを真っ先に考察します。

尾治針名眞若比咩神社、尾針神社がなぜ岡山市にあるのか?

そして、なぜ現在尾張氏の痕跡が全くないのか?

古代史に興味をもって、1番最初にぶち当たった疑問です。

 

考察① 両社になぜ尾張氏系氏族が祀られているのか?

   (尾針神社には尾綱根命が祀られているという前提です)

あ.本流の尾張氏が岡山に住んでいたのか?

4世紀中頃には、両祭神の祖父にあたる「乎止与命」が尾張国造と定められているのでそれ以降に、岡山の地に住んでいたとは考えにくい。

 

い.尾綱根命の子の系統とされる尾治針名根連の子孫が岡山にいたのか?

これは可能性として考えられますが、その後に尾治〇〇とか尾張〇〇とかの姓を名乗る氏族が見当たらず、文献も無いので強くは推せない。

ただし、1つだけ足掛かり(手がかり?)があります。瀬戸内市邑久町瀬戸内市役所のある地は「尾張」と呼ばれてます。かなり昔から、そう呼ばれる土地であったようで、もしかしたら尾張系の氏族が住んでいたのかもしれません。

※追記…旧事紀には、清寧天皇の時、尾張覚(サメ)連に命じて、吉備を前中後に分割した、という記事があるそうです。奈良時代の分国とは別のようですが、 尾張覚連ってかなりの有力者だったのでしょうか。

 

う.尾張系とされる伊福部(いおきべ)氏族がいたのか?

現在も伊福という地名が残っており、これが1番可能性があるでしょう。ただ伊福部氏族が岡山の地で繁栄・活躍したという文献は今のところ無いように思います。(都や伯耆では文献豊富ですが)

なので鳥取あたりから流れてきた伊福部の一族が岡山に住み着いたと考えるのが自然なのかもしれません。

追記:

古代の文献や木簡(平城京出土か?)には吉備(岡山とは限らず)には伊福部氏の記載が多かったようです。

 

(追記)

尾針神社の項でも記してますが、最近読んだ「吉備氏」(宝賀寿男先生著)から得た知識

濃尾にいた尾張氏は、吉備に進行・支配した彦五十狭芹彦命(吉備津彦)の孫にあたり、ヤマトタケルの東征の副官だった吉備武彦命とともに東征に参加し、一部がそのまま吉備武彦命とともに吉備に移動し住み着いたのでは?と書かれてました。その部族が尾針神社・尾治針名眞若比咩神社を創ったのでは?ということです。

具体的にどの人が吉備に移動したのか?ということまでは書かれてませんでしたが、次の可能性があるかと考えられます。

①尾綱根命、尾綱眞若刀婢が移動・遷住した

②系図に残るような人ではないが尾張氏に属する人たちが遷住した

③後に伊福部氏と呼ばれる人たちが遷住した

ヤマトタケルの東征に参加したのは世代的に尾張国造の祖、建稲種だと思われますので、子の①が吉備武彦とともに遷住した可能性は十分あると思ってます。

 

(参考)

社家の姓氏-伊福部氏-

 部民制 - Wikipedia

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(宝賀寿男先生「吉備氏」)