sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-23.宿寺山古墳とこうもり塚古墳

下道氏陵墓訪問の締めとして、宿寺山古墳とこうもり塚古墳に訪問しました。宿寺山古墳は昔の山陽道沿いの南側に位置します。
町中にあるので古墳はすぐ見つかります。ただし往時の面影はありません。木々がいっぱい生えたこんもりした丘、としか見えません。
墳丘には西側前方部に繋がる小道があります。
そこから上がると朽ちかけた東屋があり東方向に歩いていくと後円部が・・・と思うと竹林と倒木があって先へ進めません。
「え?ということはこの竹林のある辺りが後円部?それとも先に進めない向こう側が後円部なの?」
事前に所在地の確認はしたんですが、古墳の状況までは調べてなかったので混乱してしまいました。で、ここで諦めては後ほど後悔することになるかもしれないので、一旦墳丘を降りて町中をグルっと回って南側にある荒神社側から後円部かもしれないところに登りました。
しかし後円部らしき形も認識できませんし、雰囲気もありません。
疑問をいだきながらも墳丘と荒神社に拝礼して写真を撮ってこうもり塚古墳に向かいましたが、帰宅して調べてみると・・・
やはり後円部かもしれないと思ったところは後円部でした。しかしその半分くらいは墳丘が削られていたので全く後円部らしさは残ってない、とのこと。
「あー、グルっと回って後円部に登っておいて正解だったわー」
と安堵したのであります。

で次にこうもり塚古墳に行きましたが、なんでこの古墳を訪れたかと申しますと、この古墳の主様には申し訳ないですが、帰り道にあるのでついでに寄ったのです。
まぁ、ただ上道氏の牟佐大塚古墳の石室と改めて大きさの比較をしておきたいな、という気持ちはあったんですが。
(それと両宮山古墳の訪問時に牟佐大塚古墳も訪れたこととバランスをとるために、という気持ちもありましたが)
やっぱりこうもり塚古墳の石室は立派で石棺も素晴らしいものでした。墳丘も綺麗に整備されていて・・・
風土記の丘にあるのと無いの(宿寺山古墳)ではこうも扱いが違うものかと、マイナスな気持ちで感動しました。

 宿寺山古墳の被葬者比定ですが御友別命-稲速別命-速津彦臣ときて次はその子の窪屋臣の陵墓だと考えます。
ただこの世代は(備前・上道氏は田狭臣ですが)雄略天皇の弾圧が盛んだった頃であり、下道氏の本宗も不明で窪屋臣の兄弟だった小梨臣や前津屋臣(吉備臣山)だった可能性もあります。
*前津屋臣はヤマト王権に誅殺された記事が真実であれば前方後円墳に埋葬された可能性は低いかもしれませんが。
なので被葬者は窪屋臣じゃないかな~、くらいの自信度ということで。
さらにこうもり塚古墳の被葬者比定は次代の津布子臣か、次次代の香斐臣か全く決め手がありません、の状態です。

宿寺山古墳は訪問時は形もよくわからないし、めっちゃしょぼい古墳やなぁ、と思ってさらにこうもり塚古墳とも比較して、
「下道氏は一旦家勢が衰えたけど、雄略天皇の死後は少し勢い盛り返したのかなぁ」と勝手に帰り道に推測してたんですが、帰宅後調べてみたら・・・
本来の(削られていない)全長は120m(こうもり塚古墳は100m)。さらに周濠や周庭も含めれば180mもあったと書かれていて、
「ひやー、全然しょぼくないやん」
と認識を改めました。埴輪も周濠もあったのですから、とても立派な古墳だったのでしょうね。北には作山古墳、南には宿寺山古墳と山陽道で威光を輝かせてたのでしょう。
同時期の両宮山古墳には規模で及ばないのは、やはりヤマト王権からの圧力が強かったせいでしょうか。まず下道氏がしっかり絞られて、その後上道氏が絞られたと考えてみたいです。
それでも、古墳規模はしっかりとこうもり塚古墳でも維持されてるのですから、しばらくは(奈良朝ころまでは)隠然たる力を持っていたと思われます。そんな栄枯盛衰を改めて感じながら帰路につきました。

宿寺山古墳-総社市HP

こうもり塚古墳-Wikipedia

(宿寺山古墳-標識板)

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(古墳全景と備中国分寺-南から)

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(前方部から後円分に行けない(T_T))

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(こうもり塚古墳全景)

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遺跡訪問-22.小造山古墳

行ってきました小造山古墳。
行くまでは場所がわからず、捜索難航は必至!と不安いっぱいの出発だったのですが、事前に偉大な先人のNETの教えを見たので、工業団地から入ってすぐに見つけることができました。
ただ、場所はすぐに分かったんですが、墳丘(後円部頂)に至る小道が無い!史跡指定が無いからに何の案内も、道も無い!状態でした。
立派な前方後円墳なのに「これはひどいよ!」と思いながら後円部頂への坂を何とか登り切ったら、頂部は割と平たかったんですが、前方部を含めた墳形が全く分かりません。もう調査から日にちが立ちすぎて木々が生い茂りすぎてて何が何だかわかりません。また主体部の盗掘孔があるという説明だったんですが、落ち葉に埋もれてかそれも確認できませんでした。(盗掘孔に落ちるのが怖かったんで後円部頂を歩き回りませんでした)
ただ、後円部~前方部は木や草が少なく、何とか歩きやすい状態だったのでゆっくり歩いて墳丘裾の段や後円部や前方部の高まりを確認することができ、ちょっと古墳を訪れてるな!と感じることができました。それに東側の周濠跡も確認できました。造り出し部は良く分かりませんでした。
あと、前方部の東側裾から麓に降りる道のようなものがありました。これは麓からも行けるのかな?と、後で山をぐるっと回って行ってみると何と、麓からは「私有地につき立入禁止」の状態でした。
なのでここはやはり上の工業団地から入るしかないですね。
「あ~上から入って良かった!」
現地を歩いても墳丘の位置や形は明確には分からなかったんですが、近くに「折敷山古墳(方墳)」がありその説明板にその古墳と小造山古墳、造山古墳が映った昔の写真が載っていて、これは大変嬉しいものでした。
「小造山古墳は、こんなとこに造られたんだ~」

さてこの古墳の比定ですが、稲速別命の子の速津彦臣の陵墓だと考えます。備前・上道氏だと両宮山古墳の田狭臣の父の稲生臣と同世代ですね。
最初、小造山古墳は山の斜面に造られた中規模の古墳、ということでもしかしたら造山古墳・作山古墳よりも早い時期に造られた可能性もあるな、と思ってたんですが、実際訪れてみて、位置を確認し墳丘の状態を見た後ではやはり造山-作山-小造山の順の方が自然だな、と感じました。なので、小造山古墳=速津彦臣の陵墓で、私の中では決定です。
①上道氏と同じく下道氏も徐々に衰退傾向にあった
②父・作山古墳では無いが祖父・造山古墳を眺望できる位置に造られたこと(逆に、造山古墳からも良く見えること)
③埴輪等から5C後半に推定される
ことが客観的な断定理由です。
ただ何となく「山の中腹に…」というのが納得できなくも無いんですが備前・上道氏でも神宮寺山古墳の後に一本松古墳、という例もありますから勢力が衰えてくると平地に大古墳を造れなくなるのかもしれませんね。
この速津彦臣の事績は全く分かりませんが、もしかしたらおじいさんの御友別命を大好きだったのかも(そして父の稲速別命をあまり尊敬してなかったかも)しれませんね。
あと、近くに大方墳・折敷山古墳(これって前方後方墳じゃないですよね?)や、少し離れてますがこれも大方墳・角力取山古墳があるのも気になりますね。同時期の下道氏の兄弟や従弟、もしくは笠臣・賀陽臣・薗臣等の首長の陵墓だったのかもしれません。
何にしても、上道氏の玉井丸山古墳、下道氏の小造山古墳があまり古墳保存に恵まれていないのは悲哀を感じてしまいます。

小造山古墳-Wikipedia

(後円部はこの辺に1・工業団地の土手から)

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(後円部はこの辺に2・工業団地の道路)

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(後円部頂)

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(折敷山古墳説明板の写真・貴重だ!)

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(麓からの道・立入禁止)

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遺跡訪問-21.作山古墳

「さくざん」古墳行って参りました。ここも、今までの古墳と比べられないくらい立派な陵墓です。
ただ造山古墳の後だと、やはり見劣りはしますね。後円部が(真円ではなく)やや楕円に近いとこや、前方部付近に丘陵が残っている所とかも含めまして。
現在は周濠の存在は認められていないようですが、周りを見れば周濠があったらしき土地の雰囲気はあります。造山古墳と同じように最初は浅い周濠があったのだと私は思います。
古墳~奈良時代はこの辺りは下道氏隆盛の下、都会として繁栄したと思われますが、当時の国分寺国府があり古の山陽道があって、またこの古墳が葺石や埴輪がたくさん装飾された姿を見てみたかったですね。造山や作山が居並ぶこのあたりの景色はさぞかし、素晴らしかったでしょうね。そう考えると造山古墳はまだ素晴らしさを保っているように思いますが、作山古墳の現在は今一つ存在感が弱いと感じます。

主体部の調査もされてませんので現状視察はこれくらいにして被葬者の比定に入りますが、ここもほぼ間違いなく、造山古墳の被葬者「御友別命」の子「稲速別命」でしょう。
先の造山古墳の記事で、「造山」と「作山」は時期的にひっくり返る可能性はあるかも、と書きましたが、改めて両古墳を見比べて「それは無いな」と感じました。
(古墳規模や形、位置などを比較した結果です)
なので私は、「造山古墳-御友別命」「作山古墳-稲速別命」と結論付けます。
(主体部調査が行われてそれに反する結果が出た場合は、それ見たことか!と笑ってください)
吉備氏は前津屋臣への弾圧を待つことなく、稲速別命の頃には衰退が始まってたんでしょうね。それは恐らく吉備氏(上道氏、下道氏ともに)の全国一の産業として鉄製品の生産があったのですが、それがヤマト王国からの締め付けで減らされてしまい、この地方統治のための圧倒的な権力を削がれてしまったことが原因なのだと思います。
(これは詳しくは別途、詳細記事を書きます)
そして権威の象徴である古墳の規模も縮小を余儀なくされ(さらに次代の小造山古墳も縮小されます)、雄略天皇による前津屋臣(もしくは窪屋臣)への弾圧に繋がっていく、というのが私の下道氏外観です。
この古墳(恐らく寿陵)についても次のような会話が目に浮かびます。(会話が戦国調なのはご容赦)
臣下A:殿!殿のお墓ですが、(後円部の)形を整えるにはさらに
   資金がかかります。しかし、蔵の貯えが厳しい状態です。
   いかがいたしましょうか?ご下知を!
稲速別命:そうか、真鉄(まがね)も思うように作れんしのぅ。
   どうしたものか…何か良い知恵は無いか?
臣下B:殿。今のようにやや楕円形でも、街道から見ればあまり
   わかりませんし、真の円にするよりは形が大きく見えて
   却って良いのではないでしょうか?
稲速別命:そうか?大きく見えるかぁ。それは立派な理由になる
   のぉ。資金不足、というのも隠せるし。
   では、このままで完成を目指すのぢゃ!皆のもの、良いか!
臣下一同:ははぁ。仰せのままに。

栄枯盛衰の理。吉備(岡山)の歴史は悲しいのう。

作山古墳-Wikipedia

(古墳遠景-南から)

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(駐車場付近から前方部へ上がる道)

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(前方部から後円部)

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(後円部近景ー北から)

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遺跡訪問-20.造山古墳

いよいよ最大の見どころ「造山古墳」(私は昔からの癖でぞうざんと呼んでいます。作山はさくざん)訪問しました。
吉備一と言われるだけあって「でかい!」。今までの古墳と比べてもかなりデカい!きちんと整備されていて形がはっきりわかるから、という理由もあるんでしょうが、異様にデカい!例えば尾上車山古墳と比べると異様な大きさに圧倒されます。
ただし、最近私は大阪の誉田山古墳(応神天皇陵)を訪問しましたが、「ホントに山だわ!」という驚愕の大きさと比べるとそれよりは迫力はありません。大王陵と比べればはっきりと見劣りはします。学者さんによっては、ヤマト王権と比肩するような王権が吉備にもあった、と言われる方もおられますが、それは無いな、と。
周濠もかつてはあったようですがあまり深くは造られなかった模様。
数百年後には消滅したようです。
でも、吉備一の古墳の迫力は、ヤマト大王の陵墓以外では随一のものですね。このお墓に葬られた方の権勢の大きさが伺い知れます。
また墳丘(特に後円部墳頂)から見られる景色の素晴らしいこと。
かつてはごく一部の人しか見られなかったこの景色を味わえる幸せを噛みしめながら墳丘を散策しました。
後円部頂には戦国期の土塁跡があり、埋葬された方の上を多くの人が歩き回っていたんだろうな、と思うとややもの悲しさを感じましたが、こんなデカい墳丘であれば「そりゃ色んな人がいろんな目的のために利用するわな」とひとり得心して拝礼と写真を撮って訪問を終えました。

 さてこの古墳の被葬者比定は特に問題なく「御友別命」でしょう。
ただし、後で訪問する作山古墳とこの古墳の造墓時期が前後する可能性は否定できませんので絶対ではありませんが、造山古墳が先とすれば御友別命で間違いないと考えます。
やはり主体部の調査がされてませんので、その被葬者の立派さ、副葬品の凄さを実感できないのは残念ですが、(盗掘されていない限り)素晴らしいものが発掘されるだろうという思いが絶えません。
小盛山古墳の記事でも書きましたが、この人と応神天皇とはかなり親密な関係だったのでは?と考えてます。造墓についてもこれは、(当時の)吉備の人口だけでは無理であり、大和・浪速・播磨・伯耆・出雲・讃岐、そして豊・筑紫あたりからも(この頃には九州もヤマト王権の版図に入っていたと思います)労働力が借り出されて造られたのではなかろうか、と思います。石材や葺石・埴輪についても同様です。応神天皇は御友別命の助力に大変感謝していたんでしょうね。恐らく寿陵として造られたんだろうと思いますので、当時のこの地域の人の賑わい・活気というのは相当なものではなかったでしょうか。今の東京に対する大阪みたいな感じだったのかもしれません。
(それが現在に伝わってきていないのは残念に思いますが)
そして御友別命の絶頂で吉備氏(下道氏)はこの地域での権力を極めすぎたために(ヤマト王国中央で権勢を奮うことは無かったようですが)、ここを境に没落への道を歩んでしまったんでしょうか。
後円部頂に立って北東・高松稲荷方向にかすかに見える父(佐古田堂山古墳)・妹(小盛山古墳)を見ながらそういう歴史に思いを馳せると、この古墳の大きさに却ってもの悲しさを感じてしまいました。
盛者必衰の理ですね。
岡山(吉備)も衰の期間が結構長いので、そろそろ偉人が現れて盛り上がってきても良いのかもしれません。

最後になりましたが地元町内の皆さま、この古墳を綺麗に保ち、案内ボランティアもされてありがとうございます。立派な古墳を気持ちよく訪問出来てとても幸せでした。

造山古墳-wikipedia

(駐車場近辺から後円部)

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(前方部から後円部)

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(後円部から前方部)

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遺跡訪問-19.小盛山古墳

小盛山古墳は、佐古田堂山古墳の500m北側にあります。つくり山団地北の田んぼの中にあるこんもりした円墳です。
案内板もありませんし、どこから墳丘に行けるのか全く分からず、たまたまいた地元の方に聞いてみたら、北側から行ける道があるようでした。なるほど、周りには周濠だったと思われる池がいくつかあり、その池と池の間の土手から墳丘裾に行ける道がありました。ただし、墳頂に行く道はありません。雑草が生い茂ってはいませんでしたが、道なき道を登って墳頂にたどり着き拝礼と写真撮影を行いました。
案内板・説明板作ってくれれば良いのに!
訪問してる際は全く忘れていて現地でよく確認しませんでしたが、円墳の南側には造り出し部があったようで写真を撮っていなかったのが悔やまれます。
墳頂は竹が生い茂って歩きにくいものの、ほぼ平らで、ここは主体部の調査がされていないようでしたので、その上を歩いていないことを願いつつ、ウロウロして訪問を終えました。
上から見た感じも周りの池は周濠であったんだろうと感じさせてくれます。綺麗な3段円墳に周濠があった風景は美しかったんでしょうね。

さてこの古墳の被葬者の比定は「そんなあほな!」と思われる方です。まずはこの古墳築造年代推定ですが、4C後半とされるのが今の主流のようですが私はもう少し下った5C初頭~前半ではないかと思っています。特に決め手となるような発掘物は今のところ無いようですが。なぜそう思うかというと、
①この古墳が円墳である
②全国的にも大きな部類に入る円墳である
という点からこれは女性が被葬されているのではないか?そしてその人は大王クラスの人の后妃ではないか?と考えたからです。結論を言ってしまえば、この古墳は応神天皇妃であり、御友別命の妹であった兄媛の陵墓であったと考えたいのです。主体部の調査がされてないようなので全くの推論でしかありませんが。
4C後半という推定に基づいて、尾上車山古墳と佐古田堂山古墳の間に入る首長墳ではないか?という主流の考え方は、私にとっては、
「吉備の前方後円墳はほぼ吉備氏(上道氏、下道氏)首長の陵墓である。なので首長が円墳ということはあり得ない。また全国規模の大きさということは吉備氏首長クラスの人以外の墳墓ではない」
と否定する要素でしかありません。あとは自然と、
「そうであれば兄媛の陵墓としか考えられないではないか」
という結論に落ち着き、築造も「5C初頭~前半」という推測になるのです。兄媛が亡くなられた時期は全く分からないので幅は広くなりますが。(場合によっては4C終末期ということも考えられなくはありません)

これは全くの私の妄想ですが、応神天皇と御友別命、兄媛は早くから(天皇即位前から)交流があったんではなかろうか?特に応神天皇と御友別命は深い親交で、応神天皇の王位簒奪、朝鮮出兵、九州統治の手助けをし、その交わりの中で兄媛とも自然に交流していったのでは?と思うわけです。だから全国規模の造山古墳や小盛山古墳を造ることができたのだと。

そんな妄想を抱きながら、ぜひともこの円墳の主体部の発掘調査をしていただきたいなぁ、と切に思った訪問でした。

(小盛山古墳-wikipedia)
wiki前方後円墳と書かれてますが、ここは円墳で間違いないと思います。

(古墳遠景、北側から)

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(墳頂)

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(東周濠池から)

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遺跡訪問-18.佐古田堂山古墳

佐古田堂山古墳は高松稲荷の大鳥居をくぐって1km程北上すると、右手(東側)に見えてきます。そしてこの古墳はなんと!
(ネットで事前に知ってはいたけど実際見ると改めて)驚くことに
前方部が高松農業高校の実習果樹園なのでした~!ビツクリ。
これってアリなの?県指定史跡なのに?逆に県指定だから学校使用はOKなのかな?
で、私が訪れた日は誰もいなかったので勝手に入ってウロウロしましたが、もしかしたら許可が必要だったのかな?だったらゴメンナサイネ。
果樹園(といっても何も栽培されてませんでしたが)の脇を通って前方部を渡り後円部に近づくと何にも道が無い!どうすんの、コレ?と思いましたが、何とか歩いていけそうなエリアがあったので、枯れ草・枯れ木を踏み踏み後円部頂までたどり着けました。そこから見る後円部は確かに段があって後円部でしたし、前方部の形もよーく確認できました。大きさも良く分かります。写真も何枚か撮りましたが、何ともやっかいな古墳でした。先に尾上車山古墳に行ったばかりだったので、余計にそう感じましたわ(笑)

しかし古墳から西方向に見える景色は中々のもの。足守・高松地域を治めた下道氏の首長らしい場所に造られた陵墓です。そしてこれが造山・作山と続く端緒になるんですね。

この古墳の考察ですが、尾上車山古墳の被葬者・稚古止男命の子、御鋤友耳命の陵墓ではないか?と思います。
ただし御鋤友耳命は、この人も事績がほとんど無く、場合によっては上道氏系の吉備武彦命の別名ではないか?と書かれた本もあるので、この名前の人はもしかしたらこの古墳の被葬者とは別人なのかもしれません。
でも、稚古止男命の子であり、御友別命の父である人物はいたはずであり、佐古田堂山古墳はその人の陵墓である、と私は信じています。そしてそれが御鋤友耳命である、ということを否定する材料を今のところ私は持っていないので、結果としてここが御鋤友耳命の陵墓である、と述べさせていただきます。

なお、この古墳には1つ問題点(疑問点)があります。
墳丘から埴輪や葺石が検出されていない(明瞭ではない)そうです。あって当然のものが無い。なぜなのか?備前の両宮山古墳は時の王から疎まれた結果そうなったので?という推測ができるのですが、この古墳については応神天皇(もしくは仲哀天皇)から疎まれた?ということは無さそうであり、陵墓を装飾するものを取り払われる理由が全く考えられません。一応ありうることを列挙しますと、
①最初からこの古墳には埋蔵がなされなかった(主体部は未調査?)
②明瞭でないだけで、良く調査すれば発見されるかも?
③何らかの理由で後世に撤去された。(例えば高松城水攻め時とか)
こんなことくらいしか思いつきませんが、勉強しておきたいと思います。
それはさておき、この古墳に葬られた人が、足守・高松地域をしっかりと治め繁栄させたからこそ、次代・御友別命が応神天皇を援助することができ、その褒美として造山古墳を造ることを許された。というのが私の描く下道氏ストーリーでございます。
え?小盛山古墳は出てこないの?と思われる方もおられるかもしれませんが、それは次回に詳しくお話させていただきます。

(佐古田堂山古墳-Wikipedia)

(古墳遠景、左が前方部・右が後円部)

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(前方部から後円部を見る)

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(後円部から前方部を見る)

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遺跡訪問-17.尾上車山古墳

弟・吉備津彦系統2代目(つまり息子)が被葬者と思われる尾上車山古墳は、中山茶臼山古墳と同じ中山山塊ですが、東南端のギリギリ山と呼ばれる尾根上にあります。黒住教に至る車道からも前方部が何となく伺えるのですが、その車道から古墳に至る山道があります。ただし、最初の入り口に案内板があるのみで、古墳に到着するまでは何もありませんから、迷わないように訪れてください。(山道沿いには畑がいっぱいあります)
入り口案内板から先は、南に見える鉄塔を目指して何となくある山道をたどれば100M程で墳丘にたどり着きます。

で、墳丘が素晴らしい!

途中の山道はほぼ放置状態だけど、墳丘ほとんど整備されてる状態なので墳形や段がはっきりわかるし、古墳の偉大な大きさが改めて認識できます。(流石、国指定の史跡。ただ墳丘にはゴミがチラホラ散見されるのは興ざめ。見学に来た人はごみを捨てないで欲しい!)
眺望は北・北東側は木が無く、京山・一宮・辛川方面の景色は抜群ですが、南・南東方向は木があってほぼ視界ゼロ。でも古墳築造時は南に広がる海・海岸線がよく見渡せたであろうことは想像できます。
この墳丘の素晴らしさは前方後円墳とはこういうものだ!ということを学ぶための格好の材料だと思います。もっと山道や案内板なども整備されて全国の考古ファンに見てもらいたい!

古墳に関する考察ですが、この古墳は中山茶臼山古墳に続く古墳であり、つまりは弟・吉備津彦たる彦狭島命の子、稚古止男命の陵墓ではないか?と私は考えています。(宝賀先生の受け入りですけどね)
でも稚古止男命って何した人?って聞かれると私も事績は全く分かりません。系図以外に書かれた資料が無いんですよね。
世代は、兄・吉備津彦(五十狭芹彦命)の子、彦刺肩別命と同世代。 
彦刺肩別命は子の吉備武彦命の東征随行に附いていったかいかないかは不明も北陸の国造の始祖として残っていますが、稚古止男命は吉備武彦命に附いて行った記録もないですし、どこかの系図に載っているわけでもない。たぶん応神天皇の時代に天皇に助力するようになるまでは、内政に努めていたんでしょうね。と私は考えます。

ただ彦刺肩別命との比較で気づいたことがあって、彦刺肩別命の陵墓(私は網浜茶臼山古墳だと考えています)も南の穴海を良く見渡せる場所に作られており、尾上車山古墳も同様に南の穴海を良く見渡せる場所に作られています。
この時代は、吉備のヤマト王国化が一応完了して対外的にそれを知らしめる必要があったのでは無いかと思います。北方向は出雲進攻もあってヤマト王国領であることは周知であったと思いますが、南の島嶼・讃岐、そして瀬戸内海西側からやってくる人たちにも「ここはヤマト王国である」「手出しするなよ!」ということを知らしめる必要があったのでしょう。なので彦刺肩別命や稚古止男命の陵墓は今の地に造られたのでしょう。そして次代以降は吉備の発展と共に内側に威光を示すために、やや内陸部に古墳が移っていきます。

(尾上車山古墳-wikipedia)

(古墳に至る案内板)

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(古墳入り口から後円部)

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(後円部頂から前方部)

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(前方部から後円部)

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