sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-24.鬼ノ城(鬼城山)

今回は、古墳では無く古代山城跡、鬼ノ城に訪問しました。
(鬼ノ城・鬼城山どちらでも間違いないと思いますが、この記事では鬼ノ城に統一しておきます)

なぜ鬼ノ城かというと、吉備氏(上道氏・下道氏)の古墳訪問を完了して締めくくりとして、吉備氏が最初に吉備の地に到来した時、恐らくヤマト王国に抵抗した勢力が最後の砦にしたのではないか?と思われる地を訪れて、吉備氏がどのように制圧していったのかを確認したいと思ったからです。
そして、岡山に住んでいながら鬼ノ城に登ったことが無かったので、初体験しておこう!という目的もありました。

初めてならば、砂川公園から北上してビジターセンターから鬼ノ城に入る、という道がオーソドックスである、ということは分かっているのですが、今回は時間短縮のためできるだけ近くまで自転車で近付いてそこから登山したい、と思ったので奥坂にある東駐車場(休憩所)・登山口から登ってみました。

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東登山口からの山道は最初は平坦・楽々、半ばからは急・岩場でへとへとになりながら鬼ノ城の周回路にたどり着きました。

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*行きはよいよい、帰りは恐い。下山は結構危険ですから、体力・足腰に自信が無い場合、また夏場は避けた方が良いです。

鬼ノ城の北門~西門~南門~東門の周回路もたっぷり歩いて見て回れて楽しいですね。またここから見る岡山・総社・倉敷の風景も壮観。
多くの人が訪れるのも納得の内容でした。

で登って周囲を見渡してみてよ~く解ったんですが、この山は平地に近い割には十分な高さがあるし、岩が多い山肌なので守備の砦として優秀な地形であると。
南側、南西側の尾根伝いの守りを固めておけば、他方向からの攻城はあまり気にしなくて良い感じでした。
(西や北西方向も尾根伝いはありますが、こちらから攻めてくる敵はあまりいなかったでしょう)
鬼ノ城自体は7C・天智朝の頃の遺構だと思いますが、それ以前の古墳時代や弥生末期の高地性集落などでも守りの砦として柵や門が造られたのではないか?と私は考えています。
弥生末期に北九州や四国の部族が度々瀬戸内海を東進し(例えば神武東征のような)、この吉備の地にも何度かそれらの部族が押し寄せてきたのではないか?
また崇神朝の吉備津彦西征の時に阿曽の民・温羅などが最終砦としてこの山に立て籠もったのではないか?
と思うのです。(何等物証は無いですが)
この鬼城山の砦は通常規模の敵の進攻には十分耐えられて、無敵を誇っていたのではないでしょうか?
ただヤマト王国の吉備津彦西征だけは違っていた。人や武器の物量が桁違いであったし、たぶん戦略や腕力にも長けていたのでしょう。この時は阿曽の民・温羅も白旗を挙げるしかなかったかと。
また、吉備津彦の側から見た場合にこの砦を攻めるとしたらどういう方法をとるだろう?なんてことも考えてみました。
物量に任せた南側からの弓矢による攻撃・進軍か?
こないと見せかけ東側からの奇襲攻撃か?
あるいはもしかしたら高松城水攻めのように兵糧攻めに遭ったのかもしれません。歴史は繰り返す、と言いますから。

そんな感じでここは、元・吉備勢力はヤマト王国に服属した最後の地(玉砕の地)だったんじゃないかなぁ、と考えながら鬼ノ城からの風景を見渡したのでした。
そしてそういうことを山の上から見渡しながら実感できたのは、今回の登山の大きな収穫でした。今後の歴史考察の参考になるぅ!

(鬼ノ城東門付近からの風景・この日はあちこちで河川敷の野焼きをやってました)

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神社訪問-5.高松最上稲荷奥の院、竜王山一乗寺

最上稲荷ならびに奥の院は神社っぽい場所ではないですが(神仏習合なので)神社訪問とさせてください。鳥居も沢山あるし。
しかし、最上稲荷一乗寺も目的地ではありません。私の目的はひたすら竜王山。
といっても竜王山は一乗寺の境内の中にあり、八大竜王の石塔が立っている場所なのでした。なんか竜王山っぽくない・・・

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しかも吉備氏の影も形も無い…
ということで麓の最上稲荷から小一時間かけて登ってきましたが早急に次の目的地、竜王池に向かいました。

実は、この竜王山までの登山道から分岐して竜王池に向かう道があったんですが、それには気づかず、一乗寺から車道を下って結構、大回りで竜王池ならびに龍泉寺に向かい、無事到着しました。
(そして竜王池から元の登山道に簡単に行けることを帰路に気付きました)
この竜王池の方が、とても大きくて雰囲気があって良かったです。
後から龍泉寺のHPの竜王池伝説を見て初めて知ったんですが、兄・吉備津彦に従った楽楽森彦命が造ったという伝説があるんですね。

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楽楽森彦命云々は別として、竜王山、竜王池は古代吉備氏が関係していたんだ、としっかり感じることが出来ました。やはりここは吉備氏(特に下道氏)の聖山だったんですよ。

先の葦守八幡宮でも書きましたが、古墳時代、吉備氏がこの地を支配してた頃はこの竜王山は今の高松地域から見た聖山だったのだと思います。大河は流れていないものの、竜王山を含めた山塊から豊富な水が流れ、河嶋川(高梁川)の分流もあり肥沃であって、しかも氾濫が少ないこの土地は稲作を主とした生産業に適していたと思われます。だから佐古田堂山古墳や小盛山古墳が造られた。そして葉田葦守宮もこの地にあったと私は考えています。もしかしたら今の最上稲荷がある地がそうだったのかもしれません。
今の足守地域が発展したのは室町~江戸期なのではないでしょうか。古代は恐らく足守川が暴れて田畑を作るのは難しく、また西岸の阿曽地域は吉備氏が訪れる前からいた人たちが住んでる土地だったので警戒が必要だったため、足守川東岸で暮らすよりは高松地域にいるほうが落ち着いたんではなかろうか?と考えます。 

造山古墳、作山古墳と応仁・仁徳期に下道・吉備氏は山陽街道沿いにその勢力を誇示しますが、その頃も日常の暮らし、住まいは今の高松地域がメインだったのではなかろうか?
絶頂を過ぎ、雄略朝の頃の弾圧を受けてからは下道氏は河嶋川(高梁川)以西に本拠を移していくようですが、高松地域・竜王山は間違いなく、ここを征服地として住み始めた吉備氏(下道氏)の繁栄の地であり、
高松・竜王山-吉備中山・竜王山-江田山・竜王
を結ぶ地域が農業・工業・商業、物流、交通の盛んな地であったのではないでしょうか?

などという想像(妄想)を抱きながら、高松最上稲荷竜王山を下山したのであります。

(高松地区風景-小盛山古墳、佐古田堂山古墳方向)

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神社訪問-4.葦守八幡宮、葉田葦守宮跡

吉備氏(上道氏、下道氏)の前方後円墳訪問は完了したので、神社他の遺跡訪問に移っていきます。

今回は、葦守八幡宮および葉田葦守宮跡に訪問しました。
説明は不要かとは思いますが足守にあります。
なぜここかと言いますと、私、応神天皇が大変気になっておりまして、古墳時代の中では関心No.2なのです。
(No.1は尾張氏の眞若姫です)

JR足守駅から国道429号沿いに1.5km程北上したところにある当社。
正面参道は本殿・拝殿から南に延びていますが、
(200m程南の一の鳥居は日本最古の部類のものらしい)
本殿・拝殿の西側参道を降りきったところに葉田葦守宮跡があります。でも宮跡といっても石柱が立っているだけで、何をもって宮跡としてるのかは全く分かりません。
*宮跡の痕跡がどこかに残ってるのでしょうか?それとも何かの文献にこの場所(西参道登り口)にあったと書かれてるのでしょうか?
正直「ホントにここだったの?」という思いは拭い去れませんが、ま、それは置いといて立派な本殿・拝殿と(南に延びる)存在感ある参道は、この社がかなりこの地域の尊崇を集めていたことを物語っていますね。江戸期の足守藩主木下家の庇護があったからでしょうけど、それ以前からも地域の鎮守であったんでしょうね。
足守川をはさんだ決して狭くない平野全体をよく見渡せる立地にあります。しかしながら…

考察に入りますが持論では、応神天皇の時世、御友別命が造山古墳、兄媛命が小盛山古墳、父の御鋤友耳命が佐古田堂山古墳ですので、葉田葦守宮が現在の葦守八幡宮の地にあったというのは何となく違和感を感じます。葉田というのが何を意味するかは決め手がありませんが、(秦氏がこの地に繁栄したのは応神天皇時世よりは時代が下ると考えています)より相応しい場所は高松地域、言ってみれば現在の高松稲荷がある地が最適では無いかと思うんです。
この地に本拠を構えていたからこそ父や妹の陵墓が高松地域にある、
御友別命については威光を伝えるために山陽道に近い場所を選んだんでしょう。高松地域こそがこの当時の下道氏の本拠地であった、と私は考えたいです。下道氏=吉備氏の聖山、竜王山の麓でもありますし。

そんなわけで足守地域は、経済がより河川交通に依拠するようになった中世・近世以降に重要拠点として発展していったのではないか。
毛利家側の拠点であった高松城を陥落させた織豊政権は高松を捨てて足守を拠点として考えたのかもしれません。
とりあえず現時点では、こういう結論で結ばせていただければと思います。(また新たに勉強したら追記いたします)

葦守八幡宮ーWikipedia

(葦守八幡宮拝殿)

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(葦守八幡宮本殿)

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(葉田葦守宮跡)

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遺跡訪問-23.宿寺山古墳とこうもり塚古墳

下道氏陵墓訪問の締めとして、宿寺山古墳とこうもり塚古墳に訪問しました。宿寺山古墳は昔の山陽道沿いの南側に位置します。
町中にあるので古墳はすぐ見つかります。ただし往時の面影はありません。木々がいっぱい生えたこんもりした丘、としか見えません。
墳丘には西側前方部に繋がる小道があります。
そこから上がると朽ちかけた東屋があり東方向に歩いていくと後円部が・・・と思うと竹林と倒木があって先へ進めません。
「え?ということはこの竹林のある辺りが後円部?それとも先に進めない向こう側が後円部なの?」
事前に所在地の確認はしたんですが、古墳の状況までは調べてなかったので混乱してしまいました。で、ここで諦めては後ほど後悔することになるかもしれないので、一旦墳丘を降りて町中をグルっと回って南側にある荒神社側から後円部かもしれないところに登りました。
しかし後円部らしき形も認識できませんし、雰囲気もありません。
疑問をいだきながらも墳丘と荒神社に拝礼して写真を撮ってこうもり塚古墳に向かいましたが、帰宅して調べてみると・・・
やはり後円部かもしれないと思ったところは後円部でした。しかしその半分くらいは墳丘が削られていたので全く後円部らしさは残ってない、とのこと。
「あー、グルっと回って後円部に登っておいて正解だったわー」
と安堵したのであります。

で次にこうもり塚古墳に行きましたが、なんでこの古墳を訪れたかと申しますと、この古墳の主様には申し訳ないですが、帰り道にあるのでついでに寄ったのです。
まぁ、ただ上道氏の牟佐大塚古墳の石室と改めて大きさの比較をしておきたいな、という気持ちはあったんですが。
(それと両宮山古墳の訪問時に牟佐大塚古墳も訪れたこととバランスをとるために、という気持ちもありましたが)
やっぱりこうもり塚古墳の石室は立派で石棺も素晴らしいものでした。墳丘も綺麗に整備されていて・・・
風土記の丘にあるのと無いの(宿寺山古墳)ではこうも扱いが違うものかと、マイナスな気持ちで感動しました。

 宿寺山古墳の被葬者比定ですが御友別命-稲速別命-速津彦臣ときて次はその子の窪屋臣の陵墓だと考えます。
ただこの世代は(備前・上道氏は田狭臣ですが)雄略天皇の弾圧が盛んだった頃であり、下道氏の本宗も不明で窪屋臣の兄弟だった小梨臣や前津屋臣(吉備臣山)だった可能性もあります。
*前津屋臣はヤマト王権に誅殺された記事が真実であれば前方後円墳に埋葬された可能性は低いかもしれませんが。
なので被葬者は窪屋臣じゃないかな~、くらいの自信度ということで。
さらにこうもり塚古墳の被葬者比定は次代の津布子臣か、次次代の香斐臣か全く決め手がありません、の状態です。

宿寺山古墳は訪問時は形もよくわからないし、めっちゃしょぼい古墳やなぁ、と思ってさらにこうもり塚古墳とも比較して、
「下道氏は一旦家勢が衰えたけど、雄略天皇の死後は少し勢い盛り返したのかなぁ」と勝手に帰り道に推測してたんですが、帰宅後調べてみたら・・・
本来の(削られていない)全長は120m(こうもり塚古墳は100m)。さらに周濠や周庭も含めれば180mもあったと書かれていて、
「ひやー、全然しょぼくないやん」
と認識を改めました。埴輪も周濠もあったのですから、とても立派な古墳だったのでしょうね。北には作山古墳、南には宿寺山古墳と山陽道で威光を輝かせてたのでしょう。
同時期の両宮山古墳には規模で及ばないのは、やはりヤマト王権からの圧力が強かったせいでしょうか。まず下道氏がしっかり絞られて、その後上道氏が絞られたと考えてみたいです。
それでも、古墳規模はしっかりとこうもり塚古墳でも維持されてるのですから、しばらくは(奈良朝ころまでは)隠然たる力を持っていたと思われます。そんな栄枯盛衰を改めて感じながら帰路につきました。

宿寺山古墳-総社市HP

こうもり塚古墳-Wikipedia

(宿寺山古墳-標識板)

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(古墳全景と備中国分寺-南から)

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(前方部から後円分に行けない(T_T))

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(こうもり塚古墳全景)

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遺跡訪問-22.小造山古墳

行ってきました小造山古墳。
行くまでは場所がわからず、捜索難航は必至!と不安いっぱいの出発だったのですが、事前に偉大な先人のNETの教えを見たので、工業団地から入ってすぐに見つけることができました。
ただ、場所はすぐに分かったんですが、墳丘(後円部頂)に至る小道が無い!史跡指定が無いからに何の案内も、道も無い!状態でした。
立派な前方後円墳なのに「これはひどいよ!」と思いながら後円部頂への坂を何とか登り切ったら、頂部は割と平たかったんですが、前方部を含めた墳形が全く分かりません。もう調査から日にちが立ちすぎて木々が生い茂りすぎてて何が何だかわかりません。また主体部の盗掘孔があるという説明だったんですが、落ち葉に埋もれてかそれも確認できませんでした。(盗掘孔に落ちるのが怖かったんで後円部頂を歩き回りませんでした)
ただ、後円部~前方部は木や草が少なく、何とか歩きやすい状態だったのでゆっくり歩いて墳丘裾の段や後円部や前方部の高まりを確認することができ、ちょっと古墳を訪れてるな!と感じることができました。それに東側の周濠跡も確認できました。造り出し部は良く分かりませんでした。
あと、前方部の東側裾から麓に降りる道のようなものがありました。これは麓からも行けるのかな?と、後で山をぐるっと回って行ってみると何と、麓からは「私有地につき立入禁止」の状態でした。
なのでここはやはり上の工業団地から入るしかないですね。
「あ~上から入って良かった!」
現地を歩いても墳丘の位置や形は明確には分からなかったんですが、近くに「折敷山古墳(方墳)」がありその説明板にその古墳と小造山古墳、造山古墳が映った昔の写真が載っていて、これは大変嬉しいものでした。
「小造山古墳は、こんなとこに造られたんだ~」

さてこの古墳の比定ですが、稲速別命の子の速津彦臣の陵墓だと考えます。備前・上道氏だと両宮山古墳の田狭臣の父の稲生臣と同世代ですね。
最初、小造山古墳は山の斜面に造られた中規模の古墳、ということでもしかしたら造山古墳・作山古墳よりも早い時期に造られた可能性もあるな、と思ってたんですが、実際訪れてみて、位置を確認し墳丘の状態を見た後ではやはり造山-作山-小造山の順の方が自然だな、と感じました。なので、小造山古墳=速津彦臣の陵墓で、私の中では決定です。
①上道氏と同じく下道氏も徐々に衰退傾向にあった
②父・作山古墳では無いが祖父・造山古墳を眺望できる位置に造られたこと(逆に、造山古墳からも良く見えること)
③埴輪等から5C後半に推定される
ことが客観的な断定理由です。
ただ何となく「山の中腹に…」というのが納得できなくも無いんですが備前・上道氏でも神宮寺山古墳の後に一本松古墳、という例もありますから勢力が衰えてくると平地に大古墳を造れなくなるのかもしれませんね。
この速津彦臣の事績は全く分かりませんが、もしかしたらおじいさんの御友別命を大好きだったのかも(そして父の稲速別命をあまり尊敬してなかったかも)しれませんね。
あと、近くに大方墳・折敷山古墳(これって前方後方墳じゃないですよね?)や、少し離れてますがこれも大方墳・角力取山古墳があるのも気になりますね。同時期の下道氏の兄弟や従弟、もしくは笠臣・賀陽臣・薗臣等の首長の陵墓だったのかもしれません。
何にしても、上道氏の玉井丸山古墳、下道氏の小造山古墳があまり古墳保存に恵まれていないのは悲哀を感じてしまいます。

小造山古墳-Wikipedia

(後円部はこの辺に1・工業団地の土手から)

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(後円部はこの辺に2・工業団地の道路)

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(後円部頂)

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(折敷山古墳説明板の写真・貴重だ!)

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(麓からの道・立入禁止)

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遺跡訪問-21.作山古墳

「さくざん」古墳行って参りました。ここも、今までの古墳と比べられないくらい立派な陵墓です。
ただ造山古墳の後だと、やはり見劣りはしますね。後円部が(真円ではなく)やや楕円に近いとこや、前方部付近に丘陵が残っている所とかも含めまして。
現在は周濠の存在は認められていないようですが、周りを見れば周濠があったらしき土地の雰囲気はあります。造山古墳と同じように最初は浅い周濠があったのだと私は思います。
古墳~奈良時代はこの辺りは下道氏隆盛の下、都会として繁栄したと思われますが、当時の国分寺国府があり古の山陽道があって、またこの古墳が葺石や埴輪がたくさん装飾された姿を見てみたかったですね。造山や作山が居並ぶこのあたりの景色はさぞかし、素晴らしかったでしょうね。そう考えると造山古墳はまだ素晴らしさを保っているように思いますが、作山古墳の現在は今一つ存在感が弱いと感じます。

主体部の調査もされてませんので現状視察はこれくらいにして被葬者の比定に入りますが、ここもほぼ間違いなく、造山古墳の被葬者「御友別命」の子「稲速別命」でしょう。
先の造山古墳の記事で、「造山」と「作山」は時期的にひっくり返る可能性はあるかも、と書きましたが、改めて両古墳を見比べて「それは無いな」と感じました。
(古墳規模や形、位置などを比較した結果です)
なので私は、「造山古墳-御友別命」「作山古墳-稲速別命」と結論付けます。
(主体部調査が行われてそれに反する結果が出た場合は、それ見たことか!と笑ってください)
吉備氏は前津屋臣への弾圧を待つことなく、稲速別命の頃には衰退が始まってたんでしょうね。それは恐らく吉備氏(上道氏、下道氏ともに)の全国一の産業として鉄製品の生産があったのですが、それがヤマト王国からの締め付けで減らされてしまい、この地方統治のための圧倒的な権力を削がれてしまったことが原因なのだと思います。
(これは詳しくは別途、詳細記事を書きます)
そして権威の象徴である古墳の規模も縮小を余儀なくされ(さらに次代の小造山古墳も縮小されます)、雄略天皇による前津屋臣(もしくは窪屋臣)への弾圧に繋がっていく、というのが私の下道氏外観です。
この古墳(恐らく寿陵)についても次のような会話が目に浮かびます。(会話が戦国調なのはご容赦)
臣下A:殿!殿のお墓ですが、(後円部の)形を整えるにはさらに
   資金がかかります。しかし、蔵の貯えが厳しい状態です。
   いかがいたしましょうか?ご下知を!
稲速別命:そうか、真鉄(まがね)も思うように作れんしのぅ。
   どうしたものか…何か良い知恵は無いか?
臣下B:殿。今のようにやや楕円形でも、街道から見ればあまり
   わかりませんし、真の円にするよりは形が大きく見えて
   却って良いのではないでしょうか?
稲速別命:そうか?大きく見えるかぁ。それは立派な理由になる
   のぉ。資金不足、というのも隠せるし。
   では、このままで完成を目指すのぢゃ!皆のもの、良いか!
臣下一同:ははぁ。仰せのままに。

栄枯盛衰の理。吉備(岡山)の歴史は悲しいのう。

作山古墳-Wikipedia

(古墳遠景-南から)

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(駐車場付近から前方部へ上がる道)

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(前方部から後円部)

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(後円部近景ー北から)

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遺跡訪問-20.造山古墳

いよいよ最大の見どころ「造山古墳」(私は昔からの癖でぞうざんと呼んでいます。作山はさくざん)訪問しました。
吉備一と言われるだけあって「でかい!」。今までの古墳と比べてもかなりデカい!きちんと整備されていて形がはっきりわかるから、という理由もあるんでしょうが、異様にデカい!例えば尾上車山古墳と比べると異様な大きさに圧倒されます。
ただし、最近私は大阪の誉田山古墳(応神天皇陵)を訪問しましたが、「ホントに山だわ!」という驚愕の大きさと比べるとそれよりは迫力はありません。大王陵と比べればはっきりと見劣りはします。学者さんによっては、ヤマト王権と比肩するような王権が吉備にもあった、と言われる方もおられますが、それは無いな、と。
周濠もかつてはあったようですがあまり深くは造られなかった模様。
数百年後には消滅したようです。
でも、吉備一の古墳の迫力は、ヤマト大王の陵墓以外では随一のものですね。このお墓に葬られた方の権勢の大きさが伺い知れます。
また墳丘(特に後円部墳頂)から見られる景色の素晴らしいこと。
かつてはごく一部の人しか見られなかったこの景色を味わえる幸せを噛みしめながら墳丘を散策しました。
後円部頂には戦国期の土塁跡があり、埋葬された方の上を多くの人が歩き回っていたんだろうな、と思うとややもの悲しさを感じましたが、こんなデカい墳丘であれば「そりゃ色んな人がいろんな目的のために利用するわな」とひとり得心して拝礼と写真を撮って訪問を終えました。

 さてこの古墳の被葬者比定は特に問題なく「御友別命」でしょう。
ただし、後で訪問する作山古墳とこの古墳の造墓時期が前後する可能性は否定できませんので絶対ではありませんが、造山古墳が先とすれば御友別命で間違いないと考えます。
やはり主体部の調査がされてませんので、その被葬者の立派さ、副葬品の凄さを実感できないのは残念ですが、(盗掘されていない限り)素晴らしいものが発掘されるだろうという思いが絶えません。
小盛山古墳の記事でも書きましたが、この人と応神天皇とはかなり親密な関係だったのでは?と考えてます。造墓についてもこれは、(当時の)吉備の人口だけでは無理であり、大和・浪速・播磨・伯耆・出雲・讃岐、そして豊・筑紫あたりからも(この頃には九州もヤマト王権の版図に入っていたと思います)労働力が借り出されて造られたのではなかろうか、と思います。石材や葺石・埴輪についても同様です。応神天皇は御友別命の助力に大変感謝していたんでしょうね。恐らく寿陵として造られたんだろうと思いますので、当時のこの地域の人の賑わい・活気というのは相当なものではなかったでしょうか。今の東京に対する大阪みたいな感じだったのかもしれません。
(それが現在に伝わってきていないのは残念に思いますが)
そして御友別命の絶頂で吉備氏(下道氏)はこの地域での権力を極めすぎたために(ヤマト王国中央で権勢を奮うことは無かったようですが)、ここを境に没落への道を歩んでしまったんでしょうか。
後円部頂に立って北東・高松稲荷方向にかすかに見える父(佐古田堂山古墳)・妹(小盛山古墳)を見ながらそういう歴史に思いを馳せると、この古墳の大きさに却ってもの悲しさを感じてしまいました。
盛者必衰の理ですね。
岡山(吉備)も衰の期間が結構長いので、そろそろ偉人が現れて盛り上がってきても良いのかもしれません。

最後になりましたが地元町内の皆さま、この古墳を綺麗に保ち、案内ボランティアもされてありがとうございます。立派な古墳を気持ちよく訪問出来てとても幸せでした。

造山古墳-wikipedia

(駐車場近辺から後円部)

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(前方部から後円部)

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(後円部から前方部)

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