sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

カエシネ(孝安天皇)のお話

第5代孝安天皇のお話です。(間違いではありません)
スキトモの子が幼少のため代行で磯城一族から王になった人です。代行と言っても後世には直系の王にされてますが…記紀の記述と比べて、孝安天皇孝昭天皇の順序、和風諡号は入れ替わってます。
会話・心情は創作ですが設定・背景は事実だと考えてます。

#カエシネ 1
イワレヒコ×磯城の女の血を絶やしたくない
という磯城一族の執念により
太真若彦、長姫両社の弟、カエシネは
王の代行をすることになった
尊称としてミマツヒコと名付けられた
かつてイワレヒコを苦しめた長脛彦は
実の尊称がミマツヒコ
その名は磯城一族の名誉ある名前だった

#カエシネ 2
カエシネは王の地位に
さして興味は無かったが
経営の才はあった
まずは白橿原宮から離れた
葛城山の麓、秋津島に宮を設けた
秋津島は難波に出る道
紀(伊)に出る道
が交わる交通の要所であり
そしてイワレヒコのように
紀(伊)から来る賊を撃退する守りの拠点だった
人の往来が盛んになった

#カエシネ 3
この頃
北の生駒・奈良あたりは
まだ原ヤマト国の版図には入ってない
奈良盆地の南半分をしっかりと押さえ
東に宇陀、さらに伊勢
北西に難波
南西に紀伊
との交流を盛んにして国の充実を図り
次代以降に奈良盆地北半分を手中に収める
という青写真を
カエシネは頭に描いていた

#カエシネ 4
カエシネは王に就く直前
先王スキトモの兄オキシミミの娘
天豊津姫を妃に迎えた
自身はイワレヒコの男系の血は流れてないが
姫は男系の血が流れている
代行とはいえ王を継ぐ事に
宮臣の了解を得やすくする為であった
姫の気位は高かったが
カエシネは直ぐに見込まれ
夫婦仲は良好だった

#カエシネ 5
二人の間には3人の子があった
イズキヒコ、タケタツミ、ワチツミ
イズキヒコからは後の
彦坐命、吉備津彦命、八綱田命(毛野君祖)
という有名氏族が出る
カエシネは在位中は代行の王という
立場を崩さなかったが
後世になると普通に「王」であったとされ
彼ら子孫は皇族将軍と呼ばれた

#カエシネ 6
皇族将軍(四道将軍)は後の崇神天皇の頃の
ヤマト王国の爆発的な版図の拡大に
大いに貢献した
しかし急激に大きくなりすぎた王国は
かえって
イワレヒコの子孫の王権を弱くする
原因にもなっていった
カエシネ本人には何の落ち度もないが
そういう根っこを
生じさせた(代行の)王だった

#カエシネ 7
カエシネは
18の歳で(代行の)王に就き20年経った時
先王スキトモの子も20歳になり
大人になったので
宮臣たちは譲位を勧めた
しかしカエシネは
あと5年王を務めさせてくれ
と懇願した
自身の構想が形になるまでまって欲しいと
言った
決して権力に執着した訳では無かった

#カエシネ 8
さらに5年が過ぎ
カエシネは
経済政策など自分の構想がほぼ実現できたので
25歳になった先王の子に王位を譲った
25年間王として自分が目指した事
次なる王に継いでほしい事
カエシネの息子が親王の補佐に就く事
などを引き継いで
静かに宮を去った
次なる王はクニオシ
という名だった

次王へ続きます。