sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-23.宿寺山古墳とこうもり塚古墳

下道氏陵墓訪問の締めとして、宿寺山古墳とこうもり塚古墳に訪問しました。宿寺山古墳は昔の山陽道沿いの南側に位置します。
町中にあるので古墳はすぐ見つかります。ただし往時の面影はありません。木々がいっぱい生えたこんもりした丘、としか見えません。
墳丘には西側前方部に繋がる小道があります。
そこから上がると朽ちかけた東屋があり東方向に歩いていくと後円部が・・・と思うと竹林と倒木があって先へ進めません。
「え?ということはこの竹林のある辺りが後円部?それとも先に進めない向こう側が後円部なの?」
事前に所在地の確認はしたんですが、古墳の状況までは調べてなかったので混乱してしまいました。で、ここで諦めては後ほど後悔することになるかもしれないので、一旦墳丘を降りて町中をグルっと回って南側にある荒神社側から後円部かもしれないところに登りました。
しかし後円部らしき形も認識できませんし、雰囲気もありません。
疑問をいだきながらも墳丘と荒神社に拝礼して写真を撮ってこうもり塚古墳に向かいましたが、帰宅して調べてみると・・・
やはり後円部かもしれないと思ったところは後円部でした。しかしその半分くらいは墳丘が削られていたので全く後円部らしさは残ってない、とのこと。
「あー、グルっと回って後円部に登っておいて正解だったわー」
と安堵したのであります。

で次にこうもり塚古墳に行きましたが、なんでこの古墳を訪れたかと申しますと、この古墳の主様には申し訳ないですが、帰り道にあるのでついでに寄ったのです。
まぁ、ただ上道氏の牟佐大塚古墳の石室と改めて大きさの比較をしておきたいな、という気持ちはあったんですが。
(それと両宮山古墳の訪問時に牟佐大塚古墳も訪れたこととバランスをとるために、という気持ちもありましたが)
やっぱりこうもり塚古墳の石室は立派で石棺も素晴らしいものでした。墳丘も綺麗に整備されていて・・・
風土記の丘にあるのと無いの(宿寺山古墳)ではこうも扱いが違うものかと、マイナスな気持ちで感動しました。

 宿寺山古墳の被葬者比定ですが御友別命-稲速別命-速津彦臣ときて次はその子の窪屋臣の陵墓だと考えます。
ただこの世代は(備前・上道氏は田狭臣ですが)雄略天皇の弾圧が盛んだった頃であり、下道氏の本宗も不明で窪屋臣の兄弟だった小梨臣や前津屋臣(吉備臣山)だった可能性もあります。
*前津屋臣はヤマト王権に誅殺された記事が真実であれば前方後円墳に埋葬された可能性は低いかもしれませんが。
なので被葬者は窪屋臣じゃないかな~、くらいの自信度ということで。
さらにこうもり塚古墳の被葬者比定は次代の津布子臣か、次次代の香斐臣か全く決め手がありません、の状態です。

宿寺山古墳は訪問時は形もよくわからないし、めっちゃしょぼい古墳やなぁ、と思ってさらにこうもり塚古墳とも比較して、
「下道氏は一旦家勢が衰えたけど、雄略天皇の死後は少し勢い盛り返したのかなぁ」と勝手に帰り道に推測してたんですが、帰宅後調べてみたら・・・
本来の(削られていない)全長は120m(こうもり塚古墳は100m)。さらに周濠や周庭も含めれば180mもあったと書かれていて、
「ひやー、全然しょぼくないやん」
と認識を改めました。埴輪も周濠もあったのですから、とても立派な古墳だったのでしょうね。北には作山古墳、南には宿寺山古墳と山陽道で威光を輝かせてたのでしょう。
同時期の両宮山古墳には規模で及ばないのは、やはりヤマト王権からの圧力が強かったせいでしょうか。まず下道氏がしっかり絞られて、その後上道氏が絞られたと考えてみたいです。
それでも、古墳規模はしっかりとこうもり塚古墳でも維持されてるのですから、しばらくは(奈良朝ころまでは)隠然たる力を持っていたと思われます。そんな栄枯盛衰を改めて感じながら帰路につきました。

宿寺山古墳-総社市HP

こうもり塚古墳-Wikipedia

(宿寺山古墳-標識板)

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(古墳全景と備中国分寺-南から)

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(前方部から後円分に行けない(T_T))

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(こうもり塚古墳全景)

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