遺跡訪問-22.小造山古墳

行ってきました小造山古墳。
行くまでは場所がわからず、捜索難航は必至!と不安いっぱいの出発だったのですが、事前に偉大な先人のNETの教えを見たので、工業団地から入ってすぐに見つけることができました。
ただ、場所はすぐに分かったんですが、墳丘(後円部頂)に至る小道が無い!史跡指定が無いからに何の案内も、道も無い!状態でした。
立派な前方後円墳なのに「これはひどいよ!」と思いながら後円部頂への坂を何とか登り切ったら、頂部は割と平たかったんですが、前方部を含めた墳形が全く分かりません。もう調査から日にちが立ちすぎて木々が生い茂りすぎてて何が何だかわかりません。また主体部の盗掘孔があるという説明だったんですが、落ち葉に埋もれてかそれも確認できませんでした。(盗掘孔に落ちるのが怖かったんで後円部頂を歩き回りませんでした)
ただ、後円部~前方部は木や草が少なく、何とか歩きやすい状態だったのでゆっくり歩いて墳丘裾の段や後円部や前方部の高まりを確認することができ、ちょっと古墳を訪れてるな!と感じることができました。それに東側の周濠跡も確認できました。造り出し部は良く分かりませんでした。
あと、前方部の東側裾から麓に降りる道のようなものがありました。これは麓からも行けるのかな?と、後で山をぐるっと回って行ってみると何と、麓からは「私有地につき立入禁止」の状態でした。
なのでここはやはり上の工業団地から入るしかないですね。
「あ~上から入って良かった!」
現地を歩いても墳丘の位置や形は明確には分からなかったんですが、近くに「折敷山古墳(方墳)」がありその説明板にその古墳と小造山古墳、造山古墳が映った昔の写真が載っていて、これは大変嬉しいものでした。
「小造山古墳は、こんなとこに造られたんだ~」

さてこの古墳の比定ですが、稲速別命の子の速津彦臣の陵墓だと考えます。備前・上道氏だと両宮山古墳の田狭臣の父の稲生臣と同世代ですね。
最初、小造山古墳は山の斜面に造られた中規模の古墳、ということでもしかしたら造山古墳・作山古墳よりも早い時期に造られた可能性もあるな、と思ってたんですが、実際訪れてみて、位置を確認し墳丘の状態を見た後ではやはり造山-作山-小造山の順の方が自然だな、と感じました。なので、小造山古墳=速津彦臣の陵墓で、私の中では決定です。
①上道氏と同じく下道氏も徐々に衰退傾向にあった
②父・作山古墳では無いが祖父・造山古墳を眺望できる位置に造られたこと(逆に、造山古墳からも良く見えること)
③埴輪等から5C後半に推定される
ことが客観的な断定理由です。
ただ何となく「山の中腹に…」というのが納得できなくも無いんですが備前・上道氏でも神宮寺山古墳の後に一本松古墳、という例もありますから勢力が衰えてくると平地に大古墳を造れなくなるのかもしれませんね。
この速津彦臣の事績は全く分かりませんが、もしかしたらおじいさんの御友別命を大好きだったのかも(そして父の稲速別命をあまり尊敬してなかったかも)しれませんね。
あと、近くに大方墳・折敷山古墳(これって前方後方墳じゃないですよね?)や、少し離れてますがこれも大方墳・角力取山古墳があるのも気になりますね。同時期の下道氏の兄弟や従弟、もしくは笠臣・賀陽臣・薗臣等の首長の陵墓だったのかもしれません。
何にしても、上道氏の玉井丸山古墳、下道氏の小造山古墳があまり古墳保存に恵まれていないのは悲哀を感じてしまいます。

小造山古墳-Wikipedia

(後円部はこの辺に1・工業団地の土手から)

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(後円部はこの辺に2・工業団地の道路)

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(後円部頂)

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(折敷山古墳説明板の写真・貴重だ!)

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(麓からの道・立入禁止)

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