遺跡訪問-18.佐古田堂山古墳

佐古田堂山古墳は高松稲荷の大鳥居をくぐって1km程北上すると、右手(東側)に見えてきます。そしてこの古墳はなんと!
(ネットで事前に知ってはいたけど実際見ると改めて)驚くことに
前方部が高松農業高校の実習果樹園なのでした~!ビツクリ。
これってアリなの?県指定史跡なのに?逆に県指定だから学校使用はOKなのかな?
で、私が訪れた日は誰もいなかったので勝手に入ってウロウロしましたが、もしかしたら許可が必要だったのかな?だったらゴメンナサイネ。
果樹園(といっても何も栽培されてませんでしたが)の脇を通って前方部を渡り後円部に近づくと何にも道が無い!どうすんの、コレ?と思いましたが、何とか歩いていけそうなエリアがあったので、枯れ草・枯れ木を踏み踏み後円部頂までたどり着けました。そこから見る後円部は確かに段があって後円部でしたし、前方部の形もよーく確認できました。大きさも良く分かります。写真も何枚か撮りましたが、何ともやっかいな古墳でした。先に尾上車山古墳に行ったばかりだったので、余計にそう感じましたわ(笑)

しかし古墳から西方向に見える景色は中々のもの。足守・高松地域を治めた下道氏の首長らしい場所に造られた陵墓です。そしてこれが造山・作山と続く端緒になるんですね。

この古墳の考察ですが、尾上車山古墳の被葬者・稚古止男命の子、御鋤友耳命の陵墓ではないか?と思います。
ただし御鋤友耳命は、この人も事績がほとんど無く、場合によっては上道氏系の吉備武彦命の別名ではないか?と書かれた本もあるので、この名前の人はもしかしたらこの古墳の被葬者とは別人なのかもしれません。
でも、稚古止男命の子であり、御友別命の父である人物はいたはずであり、佐古田堂山古墳はその人の陵墓である、と私は信じています。そしてそれが御鋤友耳命である、ということを否定する材料を今のところ私は持っていないので、結果としてここが御鋤友耳命の陵墓である、と述べさせていただきます。

なお、この古墳には1つ問題点(疑問点)があります。
墳丘から埴輪や葺石が検出されていない(明瞭ではない)そうです。あって当然のものが無い。なぜなのか?備前の両宮山古墳は時の王から疎まれた結果そうなったので?という推測ができるのですが、この古墳については応神天皇(もしくは仲哀天皇)から疎まれた?ということは無さそうであり、陵墓を装飾するものを取り払われる理由が全く考えられません。一応ありうることを列挙しますと、
①最初からこの古墳には埋蔵がなされなかった(主体部は未調査?)
②明瞭でないだけで、良く調査すれば発見されるかも?
③何らかの理由で後世に撤去された。(例えば高松城水攻め時とか)
こんなことくらいしか思いつきませんが、勉強しておきたいと思います。
それはさておき、この古墳に葬られた人が、足守・高松地域をしっかりと治め繁栄させたからこそ、次代・御友別命が応神天皇を援助することができ、その褒美として造山古墳を造ることを許された。というのが私の描く下道氏ストーリーでございます。
え?小盛山古墳は出てこないの?と思われる方もおられるかもしれませんが、それは次回に詳しくお話させていただきます。

(佐古田堂山古墳-Wikipedia)

(古墳遠景、左が前方部・右が後円部)

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(前方部から後円部を見る)

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(後円部から前方部を見る)

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