遺跡訪問-7.湊茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳と操山109号墳

既出記事で彦五十狭芹彦命(兄・吉備津彦)の子、日子刺肩別命の墓ではないかと書いた湊茶臼山古墳(125m)。そして近くにあるちょっと気になる網浜茶臼山古墳(92m)と操山109号墳(74m)を見てきました。

茶臼山古墳は、操山というか東山の南側、古代では児島半島側から見れば操山山系の西の岬

(古代は今の児島湾の数倍広い中海が広がっていました)

に位置するところに位置する古墳で、行くまでは神宮寺山古墳のようにあまり高くないところにあるのかと思ってましたが、何の何の、金蔵山古墳と変わらないくらいの高さにあるんですね。

ここも発掘調査からは結構年数が経過しており、何の看板もなく雑然と古墳らしきものが広がってました。(唯一くびれ部辺りから墳丘に上がれる整備された道がありましたが)

今は雑木林で視界は開けていませんが、古代には児島と瀬戸内海がよく見渡せる風光明媚な場所だったのだと思われます。

しかし、この古墳の最も困った点は、調査の結果、主体部には何も埋葬されていなかったことであります。

宝賀先生も一応の比定として日子刺肩別命の陵墓とされていますが、この古墳の築造時期が金蔵山古墳よりも下る時期に作られた可能性もあるという調査結果が出ており、

もしかしたら、上道氏の別の人物の陵墓として作られたのかもしれない、そしてその人物は不慮の理由でここには葬られなかったのかもしれない、と今は思ってます。

湊茶臼山古墳 - Wikipedia

 

そしてちょっと気になると前述しました網浜茶臼山古墳なのですが、この古墳は浦間茶臼山古墳と同じく箸中山古墳(箸墓古墳)と相似形(1/3規模)で、近くに操山109号墳という前方後方墳前方後円墳と書かれた資料が多いですが)があり、こちらが日子刺肩別命の父、彦五十狭芹彦命の妃となった高田姫(七つグロ1号墳or都月坂1号墳の主の楽々森彦の妹)ではないかと考えられるので、築造時期からも考えて、網浜茶臼山古墳が日子刺肩別命の陵墓ではなかったか?という気がしてきたのです。やや全長が短い気もしますが。

この網浜茶臼山古墳は、古墳全体が東山墓地になっており、古墳としての境界や説明看板が全くない状態なので「古墳を訪れた!」という感想を全くもてませんでしたが(写真も遠景をかろうじて撮影したのみ)、立地としては湊茶臼山古墳より更に岬の西端にあり児島と瀬戸内海がさらによく見渡せる位置にあり、母とともにここに眠られてるのかもしれない、と思いました。

※操山109号墳自体は、さらに歩いて訪れる気力がなくなったので、遠景からの写真のみに留めました。また別の時期に訪れたいと思います。

網浜茶臼山古墳-古代吉備文化財センター

 

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(湊茶臼山古墳、南西方向から後円部を望む)

 

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(東山から南西方向)