遺跡訪問-6.浦間茶臼山古墳 と竜王宮神社
(H30.3再訪→下に記事あり)
備前ではこの時期としては最大(推定全長138m)で最古形式(4C初)の前方後円墳、箸墓古墳の1/2の規格で造られてる、とすれば崇神天皇朝四道将軍・彦五十狭芹彦命(兄・吉備津彦)の墓でしか無いでしょう。と宝賀寿男先生も私も思ってます浦間茶臼山古墳、訪問しました。
しかし古墳の付近には何らの看板もなく、古墳と思われる周りをグルグルしましたら、後方部に当たる公園を発見しそこに説明看板がありました。(後に周辺にも小さな案内標識があるのを発見しましたがこれじゃわからんだろう?と言いたくなるものでした)
Wikiの写真では後円部頂も簡単に行けそうな感じでしたが、草や木が生い茂ってとても無理な感じ(それでも根性で登りましたが)
何枚か付近と全景の写真を取って終わりましたが、特に何のありがたみもない現状は見ていて哀しいものでした。時代の移り変わりは無情なもの。吉備津神社等では下にも置かれぬ存在である吉備津彦の墳墓がこんな有様か~。
「ここは吉備津彦の墓だぞー!」と叫びたい思いでした。
けれど思わぬ発見もありました。
少し北に、新幹線高架をくぐった妙見山麓に「竜王宮神社」なるものがあったのです。古代吉備氏のテリトリーには竜王山が少なからずあり、竜王と名のつく神社であれば吉備氏ゆかりの神社である可能性が高いと思われるからです。(ただし神社名が古代から存続してるものであれば、ですが)
神社には由緒書きのようなものが無かったので正確なことはわかりませんが、きっと吉備津彦に関係する神社だ!と信じて、浦間茶臼山古墳にも参拝したことを報告しました。
やっぱりここは、兄・吉備津彦が住んでた土地なんですよ。
奈良の巻向に似た雰囲気もあるし、付近は赤磐市の方にも岡山市中区の方にも平地が広がってますし、吉備を平定したばかりの頃の兄・吉備津彦はとりあえずここに落ち着いたんですよ。そして子・孫の代になって操山麓や高倉山・竜王山麓に移動したんですね。そんな感想を持ちながら帰途につきました。
(前方部公園脇の説明看板)
(後円部頂あたり)
(全景。北→南方向)
(竜王宮神社)
(H30.3再訪記事)
冬の終わり(というか桜の咲く頃)に吉備氏古墳訪問完了のお礼に再訪しましたが、やはり古墳は冬に訪れるのが良いですね。雑草が無く墳丘の形がはっきり分かるから見てて嬉しい。やっぱりこの頃にこの規模の前方後円墳を築いた兄・吉備津彦の威光をしっかりと感じられました。(地元の方がしっかり草刈りされてるからでもありますが)
兄・吉備津彦の御霊はここにはもうおられないかもしれませんが、お礼と末永くこの地に安らかに眠られることを祈りました。
(後円部頂)
(後円部→前方部)