吉備の古代史-9 弟・下道系統

御友別命の子が稲速別命で、この2代が応神朝・仁徳朝の時代に当たると思われます。先に記しますが稲速別命の廟が作山古墳となり、御友別命・稲速別命のこの2代が吉備最大古墳の被葬者であろうと思われます。両古墳とも後円部主体部の調査がなされていないので正確なことはわかりませんが、副葬品等は豪華なものが現れるのではないでしょうか?

(ただし造山古墳の方は既に盗掘を受けているようです)

稲速別命は紀の分封伝承では。川島県を分与されたと記されてますが、今の総社市・吉備中央町・岡山市北西部あたりが該当すると思われます。稲速別命の代になって、しっかりと備中の街づくり、基礎固めがなされたようです。

 

そして下道氏にも崩落の時期が訪れます。

上道氏と同じく雄略天皇の時、稲速別命の孫である前津屋臣(吉備臣山)が、吉備弓削部大虚の密告により、大和王国を侮辱した罪で一族を誅殺されてしまい、下道氏の勢力が大幅に削がれてしまいます。系統的には細々と飛鳥・奈良時代に続き、吉備真備などの偉人を排出しますが、吉備を主体とした下道氏として勢力を振るうことはありませんでした。そして上道氏とともに1系統として作り変えられていった兄・弟の吉備一族は古代の栄光を取り戻すこと無く没落していくのです。

※なお稲速別命の子以降の代の廟の比定はありません。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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