吉備の古代史-8 弟・下道系統

御鋤友耳命の子に御友別命が居ました。

※御友別命は吉備武彦命の子ではありません。

御友別命は今の足守地域であろう葉田葦守宮に住んでいました。

成人した頃に後の応神天皇となるホムタワケ命と出会いました。

ホムタワケ命は大和王国の領土を視察するため、たまたま播磨の地から吉備の備前・備中に出かけており、その際に御友別命と出会い、お互い気が合い知己になったのです。

また御友別命には、年の近い容姿端麗な妹がおり(兄媛)一目見てホムタワケ命が気に入ってしまったので、尚更、御友別命との親交も深くなっていきました。

故あってホムタワケ命が王国の政権を奪取することを目指した際、御友別命は下道氏のみならず、上道氏にも働きかけて全力でホムタワケ命の援助をしたのです。

ホムタワケ命の政権奪取が成功して天皇になったとき、下道氏は天皇の庇護を受けて最高に栄え、備中の地も潤いました。

この時点で下道氏は上道氏の上に立ち、吉備氏の本宗としての立場を確立していきます。そして後には吉備氏=下道氏となり、兄・弟の2系統あった家系も元から1本であったように作り替えられていったのです。

皆さんご存知の通り、大古墳である造山古墳応神天皇から称えられた御友別命の廟です。また兄媛の廟は足守川をはさんだ北側にある円墳、小盛山古墳です。少し南に父の佐古田堂山古墳があります。

 

応神天皇は、神功皇后の子でも九州生まれでもなく、播磨あたりに住んでいた大和王国の準皇族であったと思われます。