吉備の古代史-2 吉備進攻

吉備の東半分を攻略し、吉備津彦兄弟の軍団は簸川(旭川)を越えて烏ガ山と坊主山の間の笹が迫に進軍しますが、この山と川に挟まれた地点で温羅の率いるゲリラ部隊が待ちかまえます。平地では威力を発揮する弓隊も、開けてない土地ではその威力を発揮できず、温羅はその弱点を突いてきて、吉備津彦軍団も少なからぬ被害を被りました。

しかし数では圧倒的優位に立つ軍団は相手にもせず進軍を続けたので、温羅は次の攻撃を仕掛けます。

軍団が吉備の中山と大平山の間の狭い平地に差し掛かったタイミングで後方から猪の群れを伴って槍や刀で突撃します。弓隊はいきなり後方には攻撃できず、ここでも大打撃を受けますが、ここで南側の海から進軍してきた吉備津彦軍団・海兵部隊が挟み撃ちにしたため、温羅の兵たちは近くの山に四散します。

そして吉備津彦軍団は被害など気にせぬ風で足守川を越えようかとした地点で、上流から火をかけた葦舟と共に一気に温羅の守備隊が襲い掛かります。吉備津側の兵も、温羅側の兵も傷つき、殺され付近の小川も鮮血で赤く染まります。しかし数に勝る吉備津彦軍団は何とか態勢を立て直して温羅の守備隊を押し返して足守の阿曽の地を占領することに成功しました。

温羅の守備隊は最後の決戦を行うべく、北側の鬼城山に立て籠もります。吉備津彦軍団はそれを見ながら阿曽の地に布陣し、この地の住民を捕まえて、嬲り殺す、犯す、略奪の限りを尽くしました。その様子を見るに堪えず温羅は鬼城山の守備隊を解散し、この時点で降伏しても殺されるだけだから、四方八方に逃げるよう指示しました。そして温羅自身は再興を期すため密かに川嶋河(高梁川)に出て下って西に向かおうとしました。

しかし、吉備津彦軍団の佐々森彦はそのことを予測し、湛井の水分れ

で待ち構え、これを捕らえました。

予想に反して弟吉備津彦・彦狭島は温羅の有能さを買って配下の武将になれば命は救うと申し出ましたが、温羅は捕らえられたことを恥じ、「死して阿曽の民に詫びる!」と自害しました。

吉備津彦・彦五十狭芹彦は元々殺すつもりだったので、自害した温羅の首を撥ねて湛井から東に流れる川嶋河の支流、宮瀬川に流しました。

これにて温羅の王国は潰え、後に吉備津彦と呼ばれる兄弟は吉備の進攻を完了し自らこの地の支配者となりました。(もちろん大和朝廷朝臣としてです)

温羅の首は、こっそりと行方を追っていた阿曽の民に吉備中山の麓あたりで拾われ、その地で弔われました。そのことを弟吉備津彦・彦狭島は後で知り、これまた兄には黙って、中山に造られた自身の陵墓(中山茶臼山古墳)に近い処に塚を造り温羅の霊を弔いました。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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