神社訪問-5.高松最上稲荷奥の院、竜王山一乗寺

最上稲荷ならびに奥の院は神社っぽい場所ではないですが(神仏習合なので)神社訪問とさせてください。鳥居も沢山あるし。
しかし、最上稲荷一乗寺も目的地ではありません。私の目的はひたすら竜王山。
といっても竜王山は一乗寺の境内の中にあり、八大竜王の石塔が立っている場所なのでした。なんか竜王山っぽくない・・・

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しかも吉備氏の影も形も無い…
ということで麓の最上稲荷から小一時間かけて登ってきましたが早急に次の目的地、竜王池に向かいました。

実は、この竜王山までの登山道から分岐して竜王池に向かう道があったんですが、それには気づかず、一乗寺から車道を下って結構、大回りで竜王池ならびに龍泉寺に向かい、無事到着しました。
(そして竜王池から元の登山道に簡単に行けることを帰路に気付きました)
この竜王池の方が、とても大きくて雰囲気があって良かったです。
後から龍泉寺のHPの竜王池伝説を見て初めて知ったんですが、兄・吉備津彦に従った楽楽森彦命が造ったという伝説があるんですね。

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楽楽森彦命云々は別として、竜王山、竜王池は古代吉備氏が関係していたんだ、としっかり感じることが出来ました。やはりここは吉備氏(特に下道氏)の聖山だったんですよ。

先の葦守八幡宮でも書きましたが、古墳時代、吉備氏がこの地を支配してた頃はこの竜王山は今の高松地域から見た聖山だったのだと思います。大河は流れていないものの、竜王山を含めた山塊から豊富な水が流れ、河嶋川(高梁川)の分流もあり肥沃であって、しかも氾濫が少ないこの土地は稲作を主とした生産業に適していたと思われます。だから佐古田堂山古墳や小盛山古墳が造られた。そして葉田葦守宮もこの地にあったと私は考えています。もしかしたら今の最上稲荷がある地がそうだったのかもしれません。
今の足守地域が発展したのは室町~江戸期なのではないでしょうか。古代は恐らく足守川が暴れて田畑を作るのは難しく、また西岸の阿曽地域は吉備氏が訪れる前からいた人たちが住んでる土地だったので警戒が必要だったため、足守川東岸で暮らすよりは高松地域にいるほうが落ち着いたんではなかろうか?と考えます。 

造山古墳、作山古墳と応仁・仁徳期に下道・吉備氏は山陽街道沿いにその勢力を誇示しますが、その頃も日常の暮らし、住まいは今の高松地域がメインだったのではなかろうか?
絶頂を過ぎ、雄略朝の頃の弾圧を受けてからは下道氏は河嶋川(高梁川)以西に本拠を移していくようですが、高松地域・竜王山は間違いなく、ここを征服地として住み始めた吉備氏(下道氏)の繁栄の地であり、
高松・竜王山-吉備中山・竜王山-江田山・竜王
を結ぶ地域が農業・工業・商業、物流、交通の盛んな地であったのではないでしょうか?

などという想像(妄想)を抱きながら、高松最上稲荷竜王山を下山したのであります。

(高松地区風景-小盛山古墳、佐古田堂山古墳方向)

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