遺跡訪問-20.造山古墳

いよいよ最大の見どころ「造山古墳」(私は昔からの癖でぞうざんと呼んでいます。作山はさくざん)訪問しました。
吉備一と言われるだけあって「でかい!」。今までの古墳と比べてもかなりデカい!きちんと整備されていて形がはっきりわかるから、という理由もあるんでしょうが、異様にデカい!例えば尾上車山古墳と比べると異様な大きさに圧倒されます。
ただし、最近私は大阪の誉田山古墳(応神天皇陵)を訪問しましたが、「ホントに山だわ!」という驚愕の大きさと比べるとそれよりは迫力はありません。大王陵と比べればはっきりと見劣りはします。学者さんによっては、ヤマト王権と比肩するような王権が吉備にもあった、と言われる方もおられますが、それは無いな、と。
周濠もかつてはあったようですがあまり深くは造られなかった模様。
数百年後には消滅したようです。
でも、吉備一の古墳の迫力は、ヤマト大王の陵墓以外では随一のものですね。このお墓に葬られた方の権勢の大きさが伺い知れます。
また墳丘(特に後円部墳頂)から見られる景色の素晴らしいこと。
かつてはごく一部の人しか見られなかったこの景色を味わえる幸せを噛みしめながら墳丘を散策しました。
後円部頂には戦国期の土塁跡があり、埋葬された方の上を多くの人が歩き回っていたんだろうな、と思うとややもの悲しさを感じましたが、こんなデカい墳丘であれば「そりゃ色んな人がいろんな目的のために利用するわな」とひとり得心して拝礼と写真を撮って訪問を終えました。

 さてこの古墳の被葬者比定は特に問題なく「御友別命」でしょう。
ただし、後で訪問する作山古墳とこの古墳の造墓時期が前後する可能性は否定できませんので絶対ではありませんが、造山古墳が先とすれば御友別命で間違いないと考えます。
やはり主体部の調査がされてませんので、その被葬者の立派さ、副葬品の凄さを実感できないのは残念ですが、(盗掘されていない限り)素晴らしいものが発掘されるだろうという思いが絶えません。
小盛山古墳の記事でも書きましたが、この人と応神天皇とはかなり親密な関係だったのでは?と考えてます。造墓についてもこれは、(当時の)吉備の人口だけでは無理であり、大和・浪速・播磨・伯耆・出雲・讃岐、そして豊・筑紫あたりからも(この頃には九州もヤマト王権の版図に入っていたと思います)労働力が借り出されて造られたのではなかろうか、と思います。石材や葺石・埴輪についても同様です。応神天皇は御友別命の助力に大変感謝していたんでしょうね。恐らく寿陵として造られたんだろうと思いますので、当時のこの地域の人の賑わい・活気というのは相当なものではなかったでしょうか。今の東京に対する大阪みたいな感じだったのかもしれません。
(それが現在に伝わってきていないのは残念に思いますが)
そして御友別命の絶頂で吉備氏(下道氏)はこの地域での権力を極めすぎたために(ヤマト王国中央で権勢を奮うことは無かったようですが)、ここを境に没落への道を歩んでしまったんでしょうか。
後円部頂に立って北東・高松稲荷方向にかすかに見える父(佐古田堂山古墳)・妹(小盛山古墳)を見ながらそういう歴史に思いを馳せると、この古墳の大きさに却ってもの悲しさを感じてしまいました。
盛者必衰の理ですね。
岡山(吉備)も衰の期間が結構長いので、そろそろ偉人が現れて盛り上がってきても良いのかもしれません。

最後になりましたが地元町内の皆さま、この古墳を綺麗に保ち、案内ボランティアもされてありがとうございます。立派な古墳を気持ちよく訪問出来てとても幸せでした。

造山古墳-wikipedia

(駐車場近辺から後円部)

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(前方部から後円部)

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(後円部から前方部)

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