遺跡訪問-19.小盛山古墳

小盛山古墳は、佐古田堂山古墳の500m北側にあります。つくり山団地北の田んぼの中にあるこんもりした円墳です。
案内板もありませんし、どこから墳丘に行けるのか全く分からず、たまたまいた地元の方に聞いてみたら、北側から行ける道があるようでした。なるほど、周りには周濠だったと思われる池がいくつかあり、その池と池の間の土手から墳丘裾に行ける道がありました。ただし、墳頂に行く道はありません。雑草が生い茂ってはいませんでしたが、道なき道を登って墳頂にたどり着き拝礼と写真撮影を行いました。
案内板・説明板作ってくれれば良いのに!
訪問してる際は全く忘れていて現地でよく確認しませんでしたが、円墳の南側には造り出し部があったようで写真を撮っていなかったのが悔やまれます。
墳頂は竹が生い茂って歩きにくいものの、ほぼ平らで、ここは主体部の調査がされていないようでしたので、その上を歩いていないことを願いつつ、ウロウロして訪問を終えました。
上から見た感じも周りの池は周濠であったんだろうと感じさせてくれます。綺麗な3段円墳に周濠があった風景は美しかったんでしょうね。

さてこの古墳の被葬者の比定は「そんなあほな!」と思われる方です。まずはこの古墳築造年代推定ですが、4C後半とされるのが今の主流のようですが私はもう少し下った5C初頭~前半ではないかと思っています。特に決め手となるような発掘物は今のところ無いようですが。なぜそう思うかというと、
①この古墳が円墳である
②全国的にも大きな部類に入る円墳である
という点からこれは女性が被葬されているのではないか?そしてその人は大王クラスの人の后妃ではないか?と考えたからです。結論を言ってしまえば、この古墳は応神天皇妃であり、御友別命の妹であった兄媛の陵墓であったと考えたいのです。主体部の調査がされてないようなので全くの推論でしかありませんが。
4C後半という推定に基づいて、尾上車山古墳と佐古田堂山古墳の間に入る首長墳ではないか?という主流の考え方は、私にとっては、
「吉備の前方後円墳はほぼ吉備氏(上道氏、下道氏)首長の陵墓である。なので首長が円墳ということはあり得ない。また全国規模の大きさということは吉備氏首長クラスの人以外の墳墓ではない」
と否定する要素でしかありません。あとは自然と、
「そうであれば兄媛の陵墓としか考えられないではないか」
という結論に落ち着き、築造も「5C初頭~前半」という推測になるのです。兄媛が亡くなられた時期は全く分からないので幅は広くなりますが。(場合によっては4C終末期ということも考えられなくはありません)

これは全くの私の妄想ですが、応神天皇と御友別命、兄媛は早くから(天皇即位前から)交流があったんではなかろうか?特に応神天皇と御友別命は深い親交で、応神天皇の王位簒奪、朝鮮出兵、九州統治の手助けをし、その交わりの中で兄媛とも自然に交流していったのでは?と思うわけです。だから全国規模の造山古墳や小盛山古墳を造ることができたのだと。

そんな妄想を抱きながら、ぜひともこの円墳の主体部の発掘調査をしていただきたいなぁ、と切に思った訪問でした。

(小盛山古墳-wikipedia)
wiki前方後円墳と書かれてますが、ここは円墳で間違いないと思います。

(古墳遠景、北側から)

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(墳頂)

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(東周濠池から)

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