遺跡訪問-17.尾上車山古墳

弟・吉備津彦系統2代目(つまり息子)が被葬者と思われる尾上車山古墳は、中山茶臼山古墳と同じ中山山塊ですが、東南端のギリギリ山と呼ばれる尾根上にあります。黒住教に至る車道からも前方部が何となく伺えるのですが、その車道から古墳に至る山道があります。ただし、最初の入り口に案内板があるのみで、古墳に到着するまでは何もありませんから、迷わないように訪れてください。(山道沿いには畑がいっぱいあります)
入り口案内板から先は、南に見える鉄塔を目指して何となくある山道をたどれば100M程で墳丘にたどり着きます。

で、墳丘が素晴らしい!

途中の山道はほぼ放置状態だけど、墳丘ほとんど整備されてる状態なので墳形や段がはっきりわかるし、古墳の偉大な大きさが改めて認識できます。(流石、国指定の史跡。ただ墳丘にはゴミがチラホラ散見されるのは興ざめ。見学に来た人はごみを捨てないで欲しい!)
眺望は北・北東側は木が無く、京山・一宮・辛川方面の景色は抜群ですが、南・南東方向は木があってほぼ視界ゼロ。でも古墳築造時は南に広がる海・海岸線がよく見渡せたであろうことは想像できます。
この墳丘の素晴らしさは前方後円墳とはこういうものだ!ということを学ぶための格好の材料だと思います。もっと山道や案内板なども整備されて全国の考古ファンに見てもらいたい!

古墳に関する考察ですが、この古墳は中山茶臼山古墳に続く古墳であり、つまりは弟・吉備津彦たる彦狭島命の子、稚古止男命の陵墓ではないか?と私は考えています。(宝賀先生の受け入りですけどね)
でも稚古止男命って何した人?って聞かれると私も事績は全く分かりません。系図以外に書かれた資料が無いんですよね。
世代は、兄・吉備津彦(五十狭芹彦命)の子、彦刺肩別命と同世代。 
彦刺肩別命は子の吉備武彦命の東征随行に附いていったかいかないかは不明も北陸の国造の始祖として残っていますが、稚古止男命は吉備武彦命に附いて行った記録もないですし、どこかの系図に載っているわけでもない。たぶん応神天皇の時代に天皇に助力するようになるまでは、内政に努めていたんでしょうね。と私は考えます。

ただ彦刺肩別命との比較で気づいたことがあって、彦刺肩別命の陵墓(私は網浜茶臼山古墳だと考えています)も南の穴海を良く見渡せる場所に作られており、尾上車山古墳も同様に南の穴海を良く見渡せる場所に作られています。
この時代は、吉備のヤマト王国化が一応完了して対外的にそれを知らしめる必要があったのでは無いかと思います。北方向は出雲進攻もあってヤマト王国領であることは周知であったと思いますが、南の島嶼・讃岐、そして瀬戸内海西側からやってくる人たちにも「ここはヤマト王国である」「手出しするなよ!」ということを知らしめる必要があったのでしょう。なので彦刺肩別命や稚古止男命の陵墓は今の地に造られたのでしょう。そして次代以降は吉備の発展と共に内側に威光を示すために、やや内陸部に古墳が移っていきます。

(尾上車山古墳-wikipedia)

(古墳に至る案内板)

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(古墳入り口から後円部)

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(後円部頂から前方部)

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(前方部から後円部)

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