遺跡訪問-13.両宮山古墳

備前最大の前方後円墳、両宮山古墳(墳長206m)は兄・吉備津彦命の陵墓と思われる浦間茶臼山古墳と同じく国の史跡に指定されてます。

初代と衰退直前の代の陵墓が共に国指定とは胸熱…いや誇らしいことなんですけどね。

流石に備前一の古墳だけあって見た目も美しく、見やすいように整備されてる…と思いきや、墳丘に至る道がショボいこと、ショボいこと。見学通路はあるんですが「ここ私有地じゃないの?」と思ってしまう草ボーボーの道。(まぁ進むに困難な道ではないですが)発掘調査から月日が経つとこんな状態なんですね。

で、前方部両宮神社に至る参道を発見し、無事お参りできました。(両宮神社参道は見学通路からしか行けません)

次に、神社から墳丘歩いて回れる道が無いかな?と探してみましたが、無いんですね。墳丘は外から眺めるしかないと悟り、それからぐるりと一周して見学終了です(木々ボーボーで墳形は全く分かりませんが)。途中陪塚の和田茶臼山古墳も登りました。

この5世紀後半造墓と思われる両宮山古墳は上道氏臣田狭(たさ)の陵墓と思われます。墳丘に葺石や埴輪が認められないのは雄略天皇の治世下で、濡れ衣を着せられて厳しい弾圧を受けた証拠ではないかと考えます。

※濡れ衣とは、吉備の古代史-6 兄・上道系統をご覧ください

恐らく田狭臣は領民から崇拝され、またヤマト王権の中でも確たる地位を築いていた、上道氏中興の人だったのだと思われます。墳丘の大きさ、二重周濠、雄略天皇の陵墓と思われる河内大塚山古墳と同じ企画で造られていること、がその理由です。

※巷の資料には、仁徳天皇の陵墓と知定される大仙陵古墳と同一企画とよく書かれてますが、大仙陵古墳よりは河内大塚山古墳の方が相似しています

そして中興したと同時にヤマト王権に反抗したとして懲罰的に墳丘の装飾を省かれてしまったんだと思います。後円部の主体部の調査はされてないそうなので、ここに埋葬すらされて無いのかもしれず、それで埴輪等がないのかもしれませんが。また上道氏は以後浮上できなかったようで、田狭臣の子孫の陵墓は規模を縮小しています。(両宮山・高月古墳群wikipedia

主体部の調査が行なわれて、埋葬の有無がはっきりすると嬉しいですね。この古墳に埋葬されたのか?任那で亡くなられたのか?上道氏、吉備氏の謎解明のために大事なことだと思います。

立派な美しい古墳でしたが、上道氏のその後の状況や、古墳の現在の姿を考えると少し物悲しい雰囲気の漂う遺跡でした。

 

-両宮山古墳 wikipedia

 

(前方部東角と内濠)

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(前方部両宮神社鳥居)

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(後円部、南→北方向)

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宝賀寿男著 巨大古墳と古代王統譜

(様々な角度からの巨大古墳の比定と古墳築造企画の解説が掲載されています)

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