遺跡訪問-12.玉井丸山古墳

ここは墳丘そのものが削平されて瀬戸町郷土館や大学の建物が建てられていて、さらに昔は小学校があったそうですが、墳丘にもすぐに上がれます。墳頂は約130mのようですが、正直、どこからどこまでが墳丘かはよく判りません。

なので"古墳"という雰囲気は全くありません。強いて言えば、後円部斜面にある「がらん様」と言われる石塔群とその近辺にあった石室を構成していたかもしれない石らしきものがあったくらいで、墳形も明確にはわからない状態、遠くから見れば"前方後円墳"かも知れないね、という感じでした。

しかし、郷土館(瀬戸町の歴史的遺産の展示館)ではしっかりと埴輪や土器、鉄滓などの発掘物が見られますのでここを訪問すれば、古代の雰囲気に浸れます。(ただし開館日は毎月第2・4日曜のみ)

で、こちらの古墳については行く前から感じていましたが、実際訪れてさらに疑問を深めました。

①金蔵山古墳、神宮寺山古墳に続き、両宮山古墳の前にあたる古墳と思われますが、造られた位置がちょっと中途半端な印象である

②私の比定(=宝賀先生の比定でもありますが)では葦守武彦命の陵墓とさせていただいてますが、何となく違和感を感じる

です。(後述で追記しています

①については、

浦間茶臼山古墳と操山古墳群、両宮山古墳を結ぶエリアから外れているわけではないけれども、南と北の平野からは少し離れた山間部の狭い平地に在り、首長の威光を輝かせるには少々役不足の地に思われます。なぜこの場所に?の想いを拭えません。そこで考えてみました。

・それまでの中心地であった上道平野に何か天災が起き(地震津波、洪水など)、一時的にでもコメの生産が不能になったため、やむを得ずこの地を開発し、次の代には赤坂平野を開発し拠点を移していった。

・上道氏の本宗以外にも力を蓄えた氏族が台頭し(例えば上道氏と婚姻同族化していた三野氏)上道平野の支配を奪っていった。もしくはヤマト王権の直接支配の力が強くなり、上道平野から追い出されていった。

そういう理由があって急遽、止む無くこの狭い平地に拠点を移していったのかもしれませんね。現時点では、そう考えておきます。

②については、

神宮寺山古墳に継ぐ古墳である、という点と上道氏の本宗系統が浦凝別命-葦守武彦命(-稲生臣-田狭臣)となっていることでの比定ですが、"葦守"という名が下道氏の系統の人の名(通称)で、上道氏のこの代の人の名は別にあるのではなかろうか?という疑問です。

まぁ持論があるわけではなく、私の単なる疑問なのですが、これからもこの点については勉強していきたいと思っています。

追記:この古墳と両宮山古墳を実見して考えが変わりました。玉井丸山古墳は田狭臣の父"稲生臣"の陵墓で、葦守武彦命の陵墓は神宮寺山古墳の北にある一本松古墳と現時点では考えております

なお、この古墳の主体部から発掘されたものはなく(主体部が発見されたかも不明ですが)、円筒埴輪が採取されたのみのようで、もしかしたら上道氏の衰退がこの頃から始まったのかも知れないと思わせる現状であります。

玉井丸山古墳(瀬戸町観光文化協会)

(墳丘手前の石碑)

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(後円部斜面のがらん様)

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(古墳遠景-後方部左後方から)

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