遺跡訪問-9.神宮寺山古墳
倭健命の東征に随行した吉備武彦命の子、浦凝別命(兄・吉備津彦から見て曾孫)の陵墓と思われる神宮寺山古墳を訪問しました。
古代には三野と呼ばれた地で旭川の東岸に位置したと思われ
(旭川の一番大きな流れが岡山総合グラウンド辺りを流れていたとしてです)、今は岡山市街地の中に位置する前方後円墳(150m)です。上道氏のテリトリーのほぼ西端で、上道氏首長の陵墓としては少し西に寄り過ぎの感は無くもありません。
それまで上道氏首長の前方後円墳は、山上・丘陵地に自然地形を利用して墳丘を形作っていたのですが、この代になって(小さな丘であったらしいですが)ほぼ盛り土で墳丘を整形しているのが大きな変化です。決して洪水の少なくないこの平地に墳丘を築き、それが今でもほぼ形を保っているのは凄いことだと思います。
吉備武彦命から続く上道氏の繁栄がこのような大工事を可能にしたのかもしれませんし、もしくは同じ代の下道氏の首長・御友別命が応神天皇の助力を得て繁栄し、巨大墳墓を作ったのに同調して(こちらもヤマト王権の支援を得て)今までにない墳墓を築けたのかもしれません。
主体部は十分には調査されていないようですが、副室等からは金蔵山古墳に匹敵するくらいの鉄製品が出土しています。浦凝別命の"凝"は金属鍛冶を司ったという意味であり、稲作に加えて鉄武具・製品を大量に作る、経済基盤にしたのであろうと推測されます。
この頃が上道氏、下道氏ともにブイブイいわせて大繁栄した時期であると思われますし、後に増長し雄略天皇の抑圧に繋がったのではないでしょうか。次代(玉井丸山古墳)・次次代(両宮山古墳)を最後に上道氏テリトリーからは大型前方後円墳は消えます。
(古墳遠景(旭川土手から後円部墳丘))
(後円部頂・天計神社)