吉備の古代史-11 上道氏関係の補足
しかし同時期と考えられている吉備の古墳には前方後方墳も少なからずあります。
前方後円墳は皇族に近い氏族、吉備で言えば兄・彦五十狭芹彦命の上道氏、弟・彦狭島命の下道氏の直系は前方後円墳であり、傍系あるいは配下氏族は前方後方墳である場合が多いです。前方後円墳になるか、前方後方墳になるかの違いは簡単に言ってしまえばそういうことです。
備前車塚古墳は、吉備武彦の妹、穴戸武媛(倭健命妃)の可能性があり多数の鏡(三角縁神獣鏡含む)を出土しています。
岡山平野の初期古墳として都月坂1号・前方後方墳、七つクロ1号・前方後方墳がありますが、これは三野臣の祖、楽々森命そしてその子の留玉臣命の墓である可能性があります。この界隈には、先の記事でも描いてますが尾針神社、尾治針名眞若比咩神社がありますが楽々森命、留玉臣命の子孫の三野臣が主たる地を半田山の東方に移したことで今の伊福・津島の地が尾張氏もしくは伊福部氏の関係者の居住地になったことから祀られたのではないかと考えます。
※先の記事で尾張地方の尾張氏の一部が吉備武彦の東征を共にし、そのまま吉備まで随行したことを書いてます。
※尾張氏・伊福部氏の関係者が住み、尾針神社、尾治針名眞若比咩神社が建てられたのは応神朝以降か、さらに後代の欽明朝の頃かもしれません
そして楽々森命の姉(妹)である高田姫が兄・彦五十狭芹彦命の妃となり
日子刺肩別命(湊茶臼山古墳被葬)を生みましたが、その高田姫の墓が操山109号・前方後方墳ではないかと考えます。
また、明確な比定はされていませんが、神宮寺山古墳(前方後円墳)、一本松古墳(前方後円墳)は上道氏直系の浦凝別かもしれませんが、それ以外の三野臣の吉備兄彦、吉備弟彦、鴨別などの可能性もあります。(応神朝以降の三野臣は吉備直系と扱われていたかもしれません)