吉備の古代史-7 弟・下道系統

 弟・吉備津彦彦狭島命)は吉備進攻後、出雲進攻にも出向いたかどうかは確かなところは不明ですが、恐らく拝領した下道(主に備中)に居住し、温羅を信奉していた地元民に対する支配を充実させていたのだと思います。

下道も同様に、この頃にこの地域がそう呼ばれたかは、今となっては分かりません。数百年後の記紀やその他の資料に載ってるから我々はそう呼んでいるだけで、他の呼称を知らないので、この記事(物語)でも便宜上、そう呼ぶことにします。

 弟・吉備津彦は進攻の激戦地を治めることになったため、兄のように更に外に目を向けるよりは、下道の民を安んじることに力を入れる必要がありました。なので結果としては領土(領地)を平定することに力と時間を割いたので、上道よりも町や村は栄えました。この頃の足守から吉備中山にかけては、産物も多く賑やかな地だったと思われます。彦狭島命が亡くなったのは兄よりも若干遅く垂仁黎明頃でしょうか?(西暦340年前後か)激戦の名残である吉備中山の中山茶臼山古墳に葬られたようです。

 

彦狭島命の子が稚古止男命ですが、この人の事跡は残っていないようで、父を継いで備中を安んじることに努めたと思われます。

廟は、父と同じ吉備中山の尾上車山古墳です。

 

そして稚古止男命の子が御鋤友耳命。景行記には倭健命とともに東征に遣わされたと記されるが、上道系の吉備武彦と混同されているようで、この人下道系で父と同じく備中を治めることに努めたと思われ、

(ただし吉備武彦の東征には何らかの形で援助、援軍を行ったかもしれない)

廟は佐古田堂山古墳。吉備中山を離れ、足守寄りの備中高松城の近くに葬られました。高松から足守にかけての治世がうまくいったからなのでしょう。