吉備の古代史-5 兄・上道系統
兄・吉備津彦(彦五十狭芹彦命)は出雲進攻完了後、吉備に戻り上道(備前)を拝領した支配地として居住します。
ただ、この頃にこの地域が吉備とか上道とかと呼ばれたかは、今となっては分かりません。数百年後の記紀やその他の資料に載ってるから我々はそう呼んでいるだけで、他の呼称を知らないので、この記事(物語)でも便宜上、そう呼ぶことにします。
兄・吉備津彦はあまり領土(領地)に興味はありませんでした。大和の大王(崇神天皇)の命に従って戦いの日々に身を置くことが何より好きでした。なので上道を収めることは子たちや家臣に任せ、死ぬまで色んな地に出かけていました。亡くなったのは崇神晩年か垂仁黎明頃でしょうか?(西暦330年前後か)東に吉井川が流れ、北に妙見山が見える、巻向に似た雰囲気を持つ浦間茶臼山に廟(古墳)が作られました。
兄・吉備津彦の子は、日子刺肩別命でした。
日子刺肩別命は具体的に記されたものがないので活動は不明ですが、
その廟は湊茶臼山古墳(操山104号)だと思われます。
なお日子刺肩別命は越中・利波臣氏の祖とされていますが、恐らく子の吉備武彦の北陸道親征が元となって、そのように扱われているのではないかと思われます。
日子刺肩別命の子が吉備武彦命です。時代は景行天皇御代(350年頃)。皇子倭健命の東征に随行した人です。随行したのは吉備武彦命だけでなく、兄弟の意加部彦命、建功狭日命もでした。
倭健命と往路をともにし仙台付近まで親征を行いますが、途中焼津付近では現地の賊酋が火攻めで襲ってくるところを草薙剣で切り抜け難を逃れます。そして健命はこの地に意加部彦命を残し安堵させます。
(意加部彦命は駿河・庵原國造の祖となります)
そして帰路は信濃まで同行し、そこから倭健命本隊は諏訪湖・木曽方面へ、吉備武彦命の別働隊は飛騨から越中・越前方面へ移動し、両隊は美濃で合流しました。飛騨、越中、越前では土着の氏族を平定し、鉱山を開拓し、また伊弥頭國造や利波臣氏の祖となる親族諸氏を残しました。建功狭日命も角鹿國造の祖となりました。
また別働隊には尾張氏も加わっていたようで、東征が終わり吉備に帰る際に随行したようです。(岡山の尾針神社、尾治針名眞若姫神社がその名残と思われます)
吉備武彦命は、父と同じ操山の金蔵山古墳に葬られました。豊富な鉄器と鉄製武具が当時の威勢を伺わせます。