吉備の古代史-1 吉備進攻

宝賀寿男先生の「吉備氏」を読んで勉強した内容を、つまり吉備の古代史を大まかに書いていきたいと思います。とはいえ、そのまま本の内容だけを記述していくのもなんですから、少し物語風に。

(登場人物、設定等は宝賀先生の説に従ってますが、ストーリーはブログ主の創作ですので悪しからず)

西暦317年(頃か?)崇神天皇が大和の王になってから、皇族将軍(大彦命武渟川別吉備津彦丹波道主命、ただし実際は皇族ではない)に北陸・東海・丹波・吉備を攻めて大和の王国を拡大するよう命令が下りました。崇神天皇より前から少しづつ王国は拡大していたのですが、なぜかこの人は一気に王国を倍以上も拡大しようと思い、結果的に四道将軍は全て征服に成功し、実際にそれを実現したのです。

吉備津彦、いえ実際は彦五十狭芹彦、彦狭島の兄弟は、王国の重臣・磯城県主の家系から出た勇猛果敢な武人でした。天皇の命を受けた後、当時は王国の範囲に入りつつあった播磨の氷川の地(現・加古川)で戦勝を祈願し、翌年に吉備地方に進攻開始しました。

吉備津彦兄弟の勇猛度は弓攻撃の強さにありました。兄弟個々の攻撃力のみならず、組織的な弓隊の威嚇力、侵攻力が飛び抜けていたのです。弓の弦をブンブン鳴らし、声を揃えて大音声で威嚇し、一斉に大量の弓を射掛けます。これで大抵の敵・土豪神は王国の軍門に下ります。

陸からは兄弟の弓隊が今の山陽線と同じようなコースで上郡・和気・赤坂・三野を攻略し、海からは鴨族系の武将たちが牛窓・児島から穴海へと侵攻します。

そしてとうとう、吉備進攻の最大の目標、温羅と対峙することになりました。温羅は足守地方、鬼城山を本拠にして後の備中と呼ばれる地方に産鉄・製鉄・農業を広め民に慕われる、吉備冠者と呼ばれる王でした。恐らく半島の伽耶地方から来た一族だったと思われます。

(つづく)