遺跡訪問-3.神宮寺山古墳

御野小学校の北東側にある前方後円墳です。(前方部の一部は小学校にとりこまれたらしい)4C(350~375あたりか?)頃の造墓とされています。後円部頂上の天計神社は、この近くの北方村にあったものが1600年代ころに頂上部に移されたらしいです。なのでこの古墳とは本来無関係のようです。

当時には珍しく真っ平らの土地に盛り土をして造営したらしくかなり労力がかかったと思われますし、墳長も150mと当時にしてはかなりの大きさだったはずで、葬られた王の繁栄度合いが伺われます。

盗掘を逃れた出土品からは鉄の武器・農具が数多く見出されたそうですが、同時期の古墳と推定される操山の金蔵山古墳と比べると、金蔵山古墳は鉄製工具が多いのに対し鉄製農具が多く、また金蔵山古墳では出土した鉄製漁具がこちらでは見られなかったそう。稲を主とした農業に注力した王だったのでしょうか?

今は旭川の西岸にありますが、造墓当時は岡山平野のど真ん中にあった感じで、この古墳を見ながら当時の人達は王の威光を感じつつ農業に励んだのでしょうね。

wiki等にも書かれてますが4C頃が岡山平野を支配していた氏族の最盛期だったと思われ、それ以降は造山・作山のある高松・足守地域の方が繁栄したようです。

ただ、岡山平野を支配する人がいなくなったわけではなく、ダイミ山古墳(AD400前後か?)や一本松古墳(5C前半か?)などを作った氏族がこの地を開発し、金属鍛冶を行っていたようです。

尾張氏・伊福部氏と関係する(あるいはそのものの)氏族が神宮寺山古墳やダイミ山・一本松古墳に葬られたのか、はたまたまったく別系統の氏族が葬られているのか、解明されることは無いかもしれませんが、興味が湧くところです。

ちなみに神宮寺山古墳には、応神天皇の頃の弟彦が葬られているという説もあるらしいですが、ちょっと時代が違うような気もします。

(まぁ弟彦自体の生死年代も不明ですし、弟彦存命中に寿陵として造られた可能性もありますが)

 

(ご参考)

神宮寺山古墳 - Wikipedia