sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-21.作山古墳

「さくざん」古墳行って参りました。ここも、今までの古墳と比べられないくらい立派な陵墓です。
ただ造山古墳の後だと、やはり見劣りはしますね。後円部が(真円ではなく)やや楕円に近いとこや、前方部付近に丘陵が残っている所とかも含めまして。
現在は周濠の存在は認められていないようですが、周りを見れば周濠があったらしき土地の雰囲気はあります。造山古墳と同じように最初は浅い周濠があったのだと私は思います。
古墳~奈良時代はこの辺りは下道氏隆盛の下、都会として繁栄したと思われますが、当時の国分寺国府があり古の山陽道があって、またこの古墳が葺石や埴輪がたくさん装飾された姿を見てみたかったですね。造山や作山が居並ぶこのあたりの景色はさぞかし、素晴らしかったでしょうね。そう考えると造山古墳はまだ素晴らしさを保っているように思いますが、作山古墳の現在は今一つ存在感が弱いと感じます。

主体部の調査もされてませんので現状視察はこれくらいにして被葬者の比定に入りますが、ここもほぼ間違いなく、造山古墳の被葬者「御友別命」の子「稲速別命」でしょう。
先の造山古墳の記事で、「造山」と「作山」は時期的にひっくり返る可能性はあるかも、と書きましたが、改めて両古墳を見比べて「それは無いな」と感じました。
(古墳規模や形、位置などを比較した結果です)
なので私は、「造山古墳-御友別命」「作山古墳-稲速別命」と結論付けます。
(主体部調査が行われてそれに反する結果が出た場合は、それ見たことか!と笑ってください)
吉備氏は前津屋臣への弾圧を待つことなく、稲速別命の頃には衰退が始まってたんでしょうね。それは恐らく吉備氏(上道氏、下道氏ともに)の全国一の産業として鉄製品の生産があったのですが、それがヤマト王国からの締め付けで減らされてしまい、この地方統治のための圧倒的な権力を削がれてしまったことが原因なのだと思います。
(これは詳しくは別途、詳細記事を書きます)
そして権威の象徴である古墳の規模も縮小を余儀なくされ(さらに次代の小造山古墳も縮小されます)、雄略天皇による前津屋臣(もしくは窪屋臣)への弾圧に繋がっていく、というのが私の下道氏外観です。
この古墳(恐らく寿陵)についても次のような会話が目に浮かびます。(会話が戦国調なのはご容赦)
臣下A:殿!殿のお墓ですが、(後円部の)形を整えるにはさらに
   資金がかかります。しかし、蔵の貯えが厳しい状態です。
   いかがいたしましょうか?ご下知を!
稲速別命:そうか、真鉄(まがね)も思うように作れんしのぅ。
   どうしたものか…何か良い知恵は無いか?
臣下B:殿。今のようにやや楕円形でも、街道から見ればあまり
   わかりませんし、真の円にするよりは形が大きく見えて
   却って良いのではないでしょうか?
稲速別命:そうか?大きく見えるかぁ。それは立派な理由になる
   のぉ。資金不足、というのも隠せるし。
   では、このままで完成を目指すのぢゃ!皆のもの、良いか!
臣下一同:ははぁ。仰せのままに。

栄枯盛衰の理。吉備(岡山)の歴史は悲しいのう。

作山古墳-Wikipedia

(古墳遠景-南から)

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(駐車場付近から前方部へ上がる道)

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(前方部から後円部)

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(後円部近景ー北から)

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遺跡訪問-20.造山古墳

いよいよ最大の見どころ「造山古墳」(私は昔からの癖でぞうざんと呼んでいます。作山はさくざん)訪問しました。
吉備一と言われるだけあって「でかい!」。今までの古墳と比べてもかなりデカい!きちんと整備されていて形がはっきりわかるから、という理由もあるんでしょうが、異様にデカい!例えば尾上車山古墳と比べると異様な大きさに圧倒されます。
ただし、最近私は大阪の誉田山古墳(応神天皇陵)を訪問しましたが、「ホントに山だわ!」という驚愕の大きさと比べるとそれよりは迫力はありません。大王陵と比べればはっきりと見劣りはします。学者さんによっては、ヤマト王権と比肩するような王権が吉備にもあった、と言われる方もおられますが、それは無いな、と。
周濠もかつてはあったようですがあまり深くは造られなかった模様。
数百年後には消滅したようです。
でも、吉備一の古墳の迫力は、ヤマト大王の陵墓以外では随一のものですね。このお墓に葬られた方の権勢の大きさが伺い知れます。
また墳丘(特に後円部墳頂)から見られる景色の素晴らしいこと。
かつてはごく一部の人しか見られなかったこの景色を味わえる幸せを噛みしめながら墳丘を散策しました。
後円部頂には戦国期の土塁跡があり、埋葬された方の上を多くの人が歩き回っていたんだろうな、と思うとややもの悲しさを感じましたが、こんなデカい墳丘であれば「そりゃ色んな人がいろんな目的のために利用するわな」とひとり得心して拝礼と写真を撮って訪問を終えました。

 さてこの古墳の被葬者比定は特に問題なく「御友別命」でしょう。
ただし、後で訪問する作山古墳とこの古墳の造墓時期が前後する可能性は否定できませんので絶対ではありませんが、造山古墳が先とすれば御友別命で間違いないと考えます。
やはり主体部の調査がされてませんので、その被葬者の立派さ、副葬品の凄さを実感できないのは残念ですが、(盗掘されていない限り)素晴らしいものが発掘されるだろうという思いが絶えません。
小盛山古墳の記事でも書きましたが、この人と応神天皇とはかなり親密な関係だったのでは?と考えてます。造墓についてもこれは、(当時の)吉備の人口だけでは無理であり、大和・浪速・播磨・伯耆・出雲・讃岐、そして豊・筑紫あたりからも(この頃には九州もヤマト王権の版図に入っていたと思います)労働力が借り出されて造られたのではなかろうか、と思います。石材や葺石・埴輪についても同様です。応神天皇は御友別命の助力に大変感謝していたんでしょうね。恐らく寿陵として造られたんだろうと思いますので、当時のこの地域の人の賑わい・活気というのは相当なものではなかったでしょうか。今の東京に対する大阪みたいな感じだったのかもしれません。
(それが現在に伝わってきていないのは残念に思いますが)
そして御友別命の絶頂で吉備氏(下道氏)はこの地域での権力を極めすぎたために(ヤマト王国中央で権勢を奮うことは無かったようですが)、ここを境に没落への道を歩んでしまったんでしょうか。
後円部頂に立って北東・高松稲荷方向にかすかに見える父(佐古田堂山古墳)・妹(小盛山古墳)を見ながらそういう歴史に思いを馳せると、この古墳の大きさに却ってもの悲しさを感じてしまいました。
盛者必衰の理ですね。
岡山(吉備)も衰の期間が結構長いので、そろそろ偉人が現れて盛り上がってきても良いのかもしれません。

最後になりましたが地元町内の皆さま、この古墳を綺麗に保ち、案内ボランティアもされてありがとうございます。立派な古墳を気持ちよく訪問出来てとても幸せでした。

造山古墳-wikipedia

(駐車場近辺から後円部)

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(前方部から後円部)

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(後円部から前方部)

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遺跡訪問-19.小盛山古墳

小盛山古墳は、佐古田堂山古墳の500m北側にあります。つくり山団地北の田んぼの中にあるこんもりした円墳です。
案内板もありませんし、どこから墳丘に行けるのか全く分からず、たまたまいた地元の方に聞いてみたら、北側から行ける道があるようでした。なるほど、周りには周濠だったと思われる池がいくつかあり、その池と池の間の土手から墳丘裾に行ける道がありました。ただし、墳頂に行く道はありません。雑草が生い茂ってはいませんでしたが、道なき道を登って墳頂にたどり着き拝礼と写真撮影を行いました。
案内板・説明板作ってくれれば良いのに!
訪問してる際は全く忘れていて現地でよく確認しませんでしたが、円墳の南側には造り出し部があったようで写真を撮っていなかったのが悔やまれます。
墳頂は竹が生い茂って歩きにくいものの、ほぼ平らで、ここは主体部の調査がされていないようでしたので、その上を歩いていないことを願いつつ、ウロウロして訪問を終えました。
上から見た感じも周りの池は周濠であったんだろうと感じさせてくれます。綺麗な3段円墳に周濠があった風景は美しかったんでしょうね。

さてこの古墳の被葬者の比定は「そんなあほな!」と思われる方です。まずはこの古墳築造年代推定ですが、4C後半とされるのが今の主流のようですが私はもう少し下った5C初頭~前半ではないかと思っています。特に決め手となるような発掘物は今のところ無いようですが。なぜそう思うかというと、
①この古墳が円墳である
②全国的にも大きな部類に入る円墳である
という点からこれは女性が被葬されているのではないか?そしてその人は大王クラスの人の后妃ではないか?と考えたからです。結論を言ってしまえば、この古墳は応神天皇妃であり、御友別命の妹であった兄媛の陵墓であったと考えたいのです。主体部の調査がされてないようなので全くの推論でしかありませんが。
4C後半という推定に基づいて、尾上車山古墳と佐古田堂山古墳の間に入る首長墳ではないか?という主流の考え方は、私にとっては、
「吉備の前方後円墳はほぼ吉備氏(上道氏、下道氏)首長の陵墓である。なので首長が円墳ということはあり得ない。また全国規模の大きさということは吉備氏首長クラスの人以外の墳墓ではない」
と否定する要素でしかありません。あとは自然と、
「そうであれば兄媛の陵墓としか考えられないではないか」
という結論に落ち着き、築造も「5C初頭~前半」という推測になるのです。兄媛が亡くなられた時期は全く分からないので幅は広くなりますが。(場合によっては4C終末期ということも考えられなくはありません)

これは全くの私の妄想ですが、応神天皇と御友別命、兄媛は早くから(天皇即位前から)交流があったんではなかろうか?特に応神天皇と御友別命は深い親交で、応神天皇の王位簒奪、朝鮮出兵、九州統治の手助けをし、その交わりの中で兄媛とも自然に交流していったのでは?と思うわけです。だから全国規模の造山古墳や小盛山古墳を造ることができたのだと。

そんな妄想を抱きながら、ぜひともこの円墳の主体部の発掘調査をしていただきたいなぁ、と切に思った訪問でした。

(小盛山古墳-wikipedia)
wiki前方後円墳と書かれてますが、ここは円墳で間違いないと思います。

(古墳遠景、北側から)

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(墳頂)

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(東周濠池から)

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遺跡訪問-18.佐古田堂山古墳

佐古田堂山古墳は高松稲荷の大鳥居をくぐって1km程北上すると、右手(東側)に見えてきます。そしてこの古墳はなんと!
(ネットで事前に知ってはいたけど実際見ると改めて)驚くことに
前方部が高松農業高校の実習果樹園なのでした~!ビツクリ。
これってアリなの?県指定史跡なのに?逆に県指定だから学校使用はOKなのかな?
で、私が訪れた日は誰もいなかったので勝手に入ってウロウロしましたが、もしかしたら許可が必要だったのかな?だったらゴメンナサイネ。
果樹園(といっても何も栽培されてませんでしたが)の脇を通って前方部を渡り後円部に近づくと何にも道が無い!どうすんの、コレ?と思いましたが、何とか歩いていけそうなエリアがあったので、枯れ草・枯れ木を踏み踏み後円部頂までたどり着けました。そこから見る後円部は確かに段があって後円部でしたし、前方部の形もよーく確認できました。大きさも良く分かります。写真も何枚か撮りましたが、何ともやっかいな古墳でした。先に尾上車山古墳に行ったばかりだったので、余計にそう感じましたわ(笑)

しかし古墳から西方向に見える景色は中々のもの。足守・高松地域を治めた下道氏の首長らしい場所に造られた陵墓です。そしてこれが造山・作山と続く端緒になるんですね。

この古墳の考察ですが、尾上車山古墳の被葬者・稚古止男命の子、御鋤友耳命の陵墓ではないか?と思います。
ただし御鋤友耳命は、この人も事績がほとんど無く、場合によっては上道氏系の吉備武彦命の別名ではないか?と書かれた本もあるので、この名前の人はもしかしたらこの古墳の被葬者とは別人なのかもしれません。
でも、稚古止男命の子であり、御友別命の父である人物はいたはずであり、佐古田堂山古墳はその人の陵墓である、と私は信じています。そしてそれが御鋤友耳命である、ということを否定する材料を今のところ私は持っていないので、結果としてここが御鋤友耳命の陵墓である、と述べさせていただきます。

なお、この古墳には1つ問題点(疑問点)があります。
墳丘から埴輪や葺石が検出されていない(明瞭ではない)そうです。あって当然のものが無い。なぜなのか?備前の両宮山古墳は時の王から疎まれた結果そうなったので?という推測ができるのですが、この古墳については応神天皇(もしくは仲哀天皇)から疎まれた?ということは無さそうであり、陵墓を装飾するものを取り払われる理由が全く考えられません。一応ありうることを列挙しますと、
①最初からこの古墳には埋蔵がなされなかった(主体部は未調査?)
②明瞭でないだけで、良く調査すれば発見されるかも?
③何らかの理由で後世に撤去された。(例えば高松城水攻め時とか)
こんなことくらいしか思いつきませんが、勉強しておきたいと思います。
それはさておき、この古墳に葬られた人が、足守・高松地域をしっかりと治め繁栄させたからこそ、次代・御友別命が応神天皇を援助することができ、その褒美として造山古墳を造ることを許された。というのが私の描く下道氏ストーリーでございます。
え?小盛山古墳は出てこないの?と思われる方もおられるかもしれませんが、それは次回に詳しくお話させていただきます。

(佐古田堂山古墳-Wikipedia)

(古墳遠景、左が前方部・右が後円部)

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(前方部から後円部を見る)

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(後円部から前方部を見る)

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遺跡訪問-17.尾上車山古墳

弟・吉備津彦系統2代目(つまり息子)が被葬者と思われる尾上車山古墳は、中山茶臼山古墳と同じ中山山塊ですが、東南端のギリギリ山と呼ばれる尾根上にあります。黒住教に至る車道からも前方部が何となく伺えるのですが、その車道から古墳に至る山道があります。ただし、最初の入り口に案内板があるのみで、古墳に到着するまでは何もありませんから、迷わないように訪れてください。(山道沿いには畑がいっぱいあります)
入り口案内板から先は、南に見える鉄塔を目指して何となくある山道をたどれば100M程で墳丘にたどり着きます。

で、墳丘が素晴らしい!

途中の山道はほぼ放置状態だけど、墳丘ほとんど整備されてる状態なので墳形や段がはっきりわかるし、古墳の偉大な大きさが改めて認識できます。(流石、国指定の史跡。ただ墳丘にはゴミがチラホラ散見されるのは興ざめ。見学に来た人はごみを捨てないで欲しい!)
眺望は北・北東側は木が無く、京山・一宮・辛川方面の景色は抜群ですが、南・南東方向は木があってほぼ視界ゼロ。でも古墳築造時は南に広がる海・海岸線がよく見渡せたであろうことは想像できます。
この墳丘の素晴らしさは前方後円墳とはこういうものだ!ということを学ぶための格好の材料だと思います。もっと山道や案内板なども整備されて全国の考古ファンに見てもらいたい!

古墳に関する考察ですが、この古墳は中山茶臼山古墳に続く古墳であり、つまりは弟・吉備津彦たる彦狭島命の子、稚古止男命の陵墓ではないか?と私は考えています。(宝賀先生の受け入りですけどね)
でも稚古止男命って何した人?って聞かれると私も事績は全く分かりません。系図以外に書かれた資料が無いんですよね。
世代は、兄・吉備津彦(五十狭芹彦命)の子、彦刺肩別命と同世代。 
彦刺肩別命は子の吉備武彦命の東征随行に附いていったかいかないかは不明も北陸の国造の始祖として残っていますが、稚古止男命は吉備武彦命に附いて行った記録もないですし、どこかの系図に載っているわけでもない。たぶん応神天皇の時代に天皇に助力するようになるまでは、内政に努めていたんでしょうね。と私は考えます。

ただ彦刺肩別命との比較で気づいたことがあって、彦刺肩別命の陵墓(私は網浜茶臼山古墳だと考えています)も南の穴海を良く見渡せる場所に作られており、尾上車山古墳も同様に南の穴海を良く見渡せる場所に作られています。
この時代は、吉備のヤマト王国化が一応完了して対外的にそれを知らしめる必要があったのでは無いかと思います。北方向は出雲進攻もあってヤマト王国領であることは周知であったと思いますが、南の島嶼・讃岐、そして瀬戸内海西側からやってくる人たちにも「ここはヤマト王国である」「手出しするなよ!」ということを知らしめる必要があったのでしょう。なので彦刺肩別命や稚古止男命の陵墓は今の地に造られたのでしょう。そして次代以降は吉備の発展と共に内側に威光を示すために、やや内陸部に古墳が移っていきます。

(尾上車山古墳-wikipedia)

(古墳に至る案内板)

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(古墳入り口から後円部)

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(後円部頂から前方部)

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(前方部から後円部)

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遺跡訪問-16.矢藤治山古墳

中山茶臼山古墳から南方向に足を伸ばすと矢藤治山古墳を訪れることができます。
穴観音~八徳寺~三十三観音像を通り抜け、車道に出て少し行くと黒住教の駐車場(道の南側)があり、そこに小さく案内板があってそこから山道に入り、帝釈天方向との分岐を左に進み、300M程で到達します。車道からは鉄塔が見えるのでちょうどそこが古墳の所在地です。ここは庚申山(こうしんやま)と呼ぶらしいですね。
山道はほぼ藪漕ぎすることなく進めますが、多少急な部分もあります。墳丘の形は全く確認できない状態で、案内板がありますが、それで古墳があることを知ることができるのがやっとの状態です。(すぐ傍に鉄塔が立ってます)
恐らく後円部頂を横切るように山道が通っていて、頂上には主体部跡らしきものがあります。(その近辺には四等三角点もあります)そこから南方に向けて前方部があるようですが、全く形は分かりません。
もうホントに、訪れて説明版を読んで納得するぐらいしかすることがありません。

さてこの古墳は、上道系の宍甘山王山古墳と同じように私を大変困惑させてくれる古墳です。そもそもこの古墳を私は、中山茶臼山古墳を調べるために吉備中山を下調べしてる時に失念してたのを思い出し、早速訪問リストに加えたものです。
当然、被葬者が誰かという想定もできてませんから、ちょっと思考が混乱しています。

問題は、
前方後円墳である(前方部がバチ型に開く、墳長約35M)
②特殊器台(型埴輪)、葺石がある
③吉備最古級の古墳の1つと思われる(弥生墳丘墓は含まない)
という点です。

説明が長くなりますので要約しますと、状況証拠からは私の理論(当然宝賀先生のそれと同じですが)では浦間茶臼山古墳や中山茶臼山古墳と同じ時期のヤマト王国に認められた古墳である、としか言いようがありません。しかし、兄・弟吉備津彦と同じ時代に同じ吉備で活躍した人、というのは皆目検討もつきません。
考えられることとして、
①ヤマト王国に侵攻された吉備側の首長だが、服属し王国に忠誠を誓ったので、死後陵墓は前方後円墳の築造が許された。
②進攻した吉備氏の兄・弟以外の親族がいたか、もしくは彦狭島(弟・吉備津彦)の妻(妃)の墓である。
ぐらいしか思いつきません。

①は確かに有り得なくも無いし、墳丘サイズとしても違和感はありません。温羅がそうだったかもしれませんし、それ以外の首長だったかもしれません。また首長が女性だったということも考えられます。
ただ、そうであれば、ヤマト王国側の人間になったのですから、名前、もしくは事跡が残っていないのもおかしな話に思えます。前方後円墳が造られるくらいなんですから。

で、私としては②の線で考えたいなと思っております。中山茶臼山古墳の被葬者である彦狭島には景行天皇皇后となった稲日大郎姫(稲日大郎姫の陵墓は播磨の日岡陵)ほか複数の子が伝えられていますが、
肝心の妻(妃)が伝えられていません。
皇后の母であれば前方後円墳に葬られても可笑しくないですし、墳丘サイズも違和感がありません。主体部からの出土品も女性被葬者らしいものに感じます。もし妻の陵墓であるとすれば、恐らく吉備進攻前に播磨で準備をしている際に娶った人なのではないかと考えます。
(それだったら陵墓は播磨に造られるべき人なのでは?と言われたらそれも当然かとは思いますが)何か理由があって夫の陵墓の近くに葬られたんでしょう。というか夫よりも先に亡くなられて、夫の傍らに置いておきたくて矢藤治山古墳が造られたのかも知れませんね。

なんて妄想を抱きながら、矢藤治山古墳を訪問してまいりました。
今でこそ周りに樹木が生い茂って眺望が得られませんが、当時は吉備中山山塊のど真ん中にあって北方以外はよく見渡せる場所だったのかもしれませんね。
(矢藤治山古墳-Wikipedia)

(古墳に至る案内標識)

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(古墳説明板)

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(後円部頂付近三角点)

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遺跡訪問-15.中山茶臼山古墳

いよいよ下道氏の巡礼に入りました。
まずは、下道氏初代の彦狭島命(稚武吉備津彦命、以降弟・吉備津彦と呼びます)の陵墓、中山茶臼山古墳からスタートです。
この古墳は吉備津神社の真上にある感じなんですが、ちょっと話はそれますが、吉備津神社の祭神は「大吉備津彦命」すなわち兄・吉備津彦命なんですよね。でもその上にあるのは弟・吉備津彦の陵墓。
(世間一般的には皇族・四道将軍大吉備津彦命の陵墓とされていますが…)
私の気持ちとしては、このねじれは解消してほしいなと常々思っています。つまり備中一宮・吉備津神社祭神は弟・吉備津彦備前一宮・吉備津彦神社の祭神は兄・吉備津彦となると嬉しいな、と。

で戻りますが、こちらは宮内庁治定の陵墓なので、鉄線が張られていて中には入れません。その代わり立派な拝所が設けられています。でも拝所から見える森は古墳そのものではありません。もう少し奥に前方後円墳があります。で墳丘は全く見えないのかというと、北側に行くと鉄線に沿って山道があってそこから墳丘を見ることができるのです。(後円部を前方向とすると墳丘の右側が見えます。逆に左側は道が無いので全く見えません)
さらには、ちょうど後円部の真下あたりに穴観音様と呼ばれる赤い布をかけられた岩群があってその場所へは鉄線を越えて中に入れるので少し後円部に近づいて見ることができます。(当然、岩群の周りには鉄線は張られてますが)
山道からは、前方部からくびれ部にかけての稜線とさらに盛り上がった後円部をしっかりと確認できます。なので、こちらの古墳を訪問したら山道からしっかりと墳形を確認してくださいね。下からでも良好に形が確認できます。
主体部の発掘調査はされてないですが(盗掘も無いと思いますが)、そこからはどんな副葬品が出てくるんでしょうね?将来的に調査がされることを願ってやみません。

墳丘には葺石と特殊器台型埴輪が存在したと認められているようで、兄・吉備津彦の浦間茶臼山古墳とほぼ同時期の陵墓と推定できます。
ここからは北・北西に広がる高松・足守平野を一望できたであろうし、(逆に南の海側からはこの古墳はあまり見えないように思います)
この界隈を治めた弟・吉備津彦に相応しい陵墓ではないでしょうか。

中山茶臼山古墳:Wikipedia

 

(拝所)

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(後円部と穴観音様)

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(前方部・くびれ部)

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(もっと寄った後円部)

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