sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

吉備の古代史-10 吉備氏と吉備津・吉備津彦神社

現在は、

備中一宮・吉備津神社主祭神・・・大吉備津彦大神

備前一宮・吉備津彦神社の御祭神・・・大吉備津彦命

となってます吉備の神々。(備後は省きます。ご容赦)

先の記事でも書きましたが御友別命以降、吉備氏の本宗は下道氏となり、

兄・弟の2系統が下道氏系統に1本化されたため、初祖の兄・彦五十狭芹彦命はしっかりと残ってはいますが、吉備武彦命や日子刺肩別命、御友別命など全て同系統の一族となっており、

(そしてなぜか弟・彦狭島命は影が薄い)

下道氏の聖山であった吉備中山が吉備(備前・備中)の神体山となり、備前一宮・備中一宮が寄り付くことになりました。

弟・彦狭島命の廟(中山茶臼山古墳)があるので備中の神体山であれば十分なところ備前の神体山でもある、という不思議な状態。

というのが今の吉備(=岡山)の実態なのです。

では上道氏の、備前の聖山はどこにあったのでしょうか?

備前一宮であった阿仁神社(そしてかつて神社のあった山)も兄・彦五十狭芹彦命に関係があったのかもしれませんが、それよりも、今は岡山市赤磐市のほぼ境にある竜王山・高蔵山が聖山であったと思われます。そしてそれを祀るのが高蔵神社。

(付近には浦間茶臼山古墳、金蔵山古墳、両宮山古墳があります)

 

もちろん今の、備前一宮・吉備津彦神社がまがい物だと言いたいわけではありません。吉備津彦神社も平安時代以降約1000年の歴史を持った由緒ある神社で、背後の竜王山も古代祭祀の地であったようですから、祀る意味のある場所だと思います。

ただ本来の聖山であった高蔵山・高蔵神社も古代の吉備(備前)を治めた大切な場所であったはずなのです。備前で暮らす皆さんにもそのことを、少しでも心に留めておいていただけたら、兄・彦五十狭芹彦命や上道氏の神々も喜ばれると思うのです。

 

(高蔵神社・本殿)

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宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-9 弟・下道系統

御友別命の子が稲速別命で、この2代が応神朝・仁徳朝の時代に当たると思われます。先に記しますが稲速別命の廟が作山古墳となり、御友別命・稲速別命のこの2代が吉備最大古墳の被葬者であろうと思われます。両古墳とも後円部主体部の調査がなされていないので正確なことはわかりませんが、副葬品等は豪華なものが現れるのではないでしょうか?

(ただし造山古墳の方は既に盗掘を受けているようです)

稲速別命は紀の分封伝承では。川島県を分与されたと記されてますが、今の総社市・吉備中央町・岡山市北西部あたりが該当すると思われます。稲速別命の代になって、しっかりと備中の街づくり、基礎固めがなされたようです。

 

そして下道氏にも崩落の時期が訪れます。

上道氏と同じく雄略天皇の時、稲速別命の孫である前津屋臣(吉備臣山)が、吉備弓削部大虚の密告により、大和王国を侮辱した罪で一族を誅殺されてしまい、下道氏の勢力が大幅に削がれてしまいます。系統的には細々と飛鳥・奈良時代に続き、吉備真備などの偉人を排出しますが、吉備を主体とした下道氏として勢力を振るうことはありませんでした。そして上道氏とともに1系統として作り変えられていった兄・弟の吉備一族は古代の栄光を取り戻すこと無く没落していくのです。

※なお稲速別命の子以降の代の廟の比定はありません。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-8 弟・下道系統

御鋤友耳命の子に御友別命が居ました。

※御友別命は吉備武彦命の子ではありません。

御友別命は今の足守地域であろう葉田葦守宮に住んでいました。

成人した頃に後の応神天皇となるホムタワケ命と出会いました。

ホムタワケ命は大和王国の領土を視察するため、たまたま播磨の地から吉備の備前・備中に出かけており、その際に御友別命と出会い、お互い気が合い知己になったのです。

また御友別命には、年の近い容姿端麗な妹がおり(兄媛)一目見てホムタワケ命が気に入ってしまったので、尚更、御友別命との親交も深くなっていきました。

故あってホムタワケ命が王国の政権を奪取することを目指した際、御友別命は下道氏のみならず、上道氏にも働きかけて全力でホムタワケ命の援助をしたのです。

ホムタワケ命の政権奪取が成功して天皇になったとき、下道氏は天皇の庇護を受けて最高に栄え、備中の地も潤いました。

この時点で下道氏は上道氏の上に立ち、吉備氏の本宗としての立場を確立していきます。そして後には吉備氏=下道氏となり、兄・弟の2系統あった家系も元から1本であったように作り替えられていったのです。

皆さんご存知の通り、大古墳である造山古墳応神天皇から称えられた御友別命の廟です。また兄媛の廟は足守川をはさんだ北側にある円墳、小盛山古墳です。少し南に父の佐古田堂山古墳があります。

 

応神天皇は、神功皇后の子でも九州生まれでもなく、播磨あたりに住んでいた大和王国の準皇族であったと思われます。

吉備の古代史-7 弟・下道系統

 弟・吉備津彦彦狭島命)は吉備進攻後、出雲進攻にも出向いたかどうかは確かなところは不明ですが、恐らく拝領した下道(主に備中)に居住し、温羅を信奉していた地元民に対する支配を充実させていたのだと思います。

下道も同様に、この頃にこの地域がそう呼ばれたかは、今となっては分かりません。数百年後の記紀やその他の資料に載ってるから我々はそう呼んでいるだけで、他の呼称を知らないので、この記事(物語)でも便宜上、そう呼ぶことにします。

 弟・吉備津彦は進攻の激戦地を治めることになったため、兄のように更に外に目を向けるよりは、下道の民を安んじることに力を入れる必要がありました。なので結果としては領土(領地)を平定することに力と時間を割いたので、上道よりも町や村は栄えました。この頃の足守から吉備中山にかけては、産物も多く賑やかな地だったと思われます。彦狭島命が亡くなったのは兄よりも若干遅く垂仁黎明頃でしょうか?(西暦340年前後か)激戦の名残である吉備中山の中山茶臼山古墳に葬られたようです。

 

彦狭島命の子が稚古止男命ですが、この人の事跡は残っていないようで、父を継いで備中を安んじることに努めたと思われます。

廟は、父と同じ吉備中山の尾上車山古墳です。

 

そして稚古止男命の子が御鋤友耳命。景行記には倭健命とともに東征に遣わされたと記されるが、上道系の吉備武彦と混同されているようで、この人下道系で父と同じく備中を治めることに努めたと思われ、

(ただし吉備武彦の東征には何らかの形で援助、援軍を行ったかもしれない)

廟は佐古田堂山古墳。吉備中山を離れ、足守寄りの備中高松城の近くに葬られました。高松から足守にかけての治世がうまくいったからなのでしょう。

吉備の古代史-6 兄・上道系統

吉備武彦命の子孫は浦凝別(神宮寺山古墳)、葦守武彦命(玉井丸山古墳)と続きますが、3代孫の田狭臣の時に大和王国・雄略天皇から手痛い仕打ちを受けてしまいます。

追記:玉井丸山古墳、両宮山古墳を実見して考えが変わりました。玉井丸山古墳は田狭臣の父”稲生臣”の陵墓で、葦守武彦命の陵墓は一本松古墳と現時点では考えております

大和の朝廷に出仕した際、平群真鳥から世間話として

「田狭臣の奥方(葛城氏・毛媛)はこの上なく美しい人との噂、かねがね伺っておりまするぞ」とからかわれ、田狭臣も悪い気はしないので「吾にはもったいない嫁でございます」と恭しく答えました。

すると後日天皇の御前に呼び出され、

「田狭臣、任那へと赴き不穏な動きのある新羅の進攻を防いでくれるか?すぐに発って欲しい。その間、真鳥臣から聞いているお主の美しい妃は吾が預かっておこう」

と申されました。田狭臣は、

「しまった。平群真鳥に謀られた。」と気付きましたが時既に遅し。

雄略天皇の吉備氏や葛城氏叩きは誰もが知る事実。自分には影響がない、と甘く考えていたことが悔やまれますが、天皇の命令に大人しく従いました。

任那に赴任後、田狭臣は援軍の必要を感じ、朝廷に許可を得た後に、自身の次男「弟君」を呼び寄せることにしましたが、ここでも謀にあい、「弟君を呼び寄せたのは任那で反乱を起こすためだ」とされてしまい、それに騙された弟君の妻樟姫に弟君は殺されてしまいました。

ここに至って田狭臣は、

「何をしても無駄だ。上道氏はここで消されてしまう」

と世を儚み、毒薬を飲んで自死してしまいました。

田狭臣の亡骸は吉備へと運ばれ、両宮山古墳に葬られました。

(古墳自体は寿陵として生前から作られていました)

ただ最後まで不幸はついて回ります。天皇から「反乱を企てた者に相応しい廟にする!」として、古墳の飾りの葺石や埴輪は全て撤去され、寂しい佇まいにされてしまったのです。

後年、雄略天皇の死後、上道氏は星川皇子の乱でさらに勢力を削がれ子孫の古墳も規模が縮小されましたが、滅することはなく、細々ながらも朝廷に仕える氏族として存続したようです。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-5 兄・上道系統

 兄・吉備津彦彦五十狭芹彦命)は出雲進攻完了後、吉備に戻り上道(備前)を拝領した支配地として居住します。

ただ、この頃にこの地域が吉備とか上道とかと呼ばれたかは、今となっては分かりません。数百年後の記紀やその他の資料に載ってるから我々はそう呼んでいるだけで、他の呼称を知らないので、この記事(物語)でも便宜上、そう呼ぶことにします。

 兄・吉備津彦はあまり領土(領地)に興味はありませんでした。大和の大王(崇神天皇)の命に従って戦いの日々に身を置くことが何より好きでした。なので上道を収めることは子たちや家臣に任せ、死ぬまで色んな地に出かけていました。亡くなったのは崇神晩年か垂仁黎明頃でしょうか?(西暦330年前後か)東に吉井川が流れ、北に妙見山が見える、巻向に似た雰囲気を持つ浦間茶臼山に廟(古墳)が作られました。

浦間茶臼山古墳 - Wikipedia

 

兄・吉備津彦の子は、日子刺肩別命でした。

(兄・吉備津彦と並ぶ孝霊天皇の皇子では無い)

日子刺肩別命は具体的に記されたものがないので活動は不明ですが、

その廟は湊茶臼山古墳(操山104号)だと思われます。

なお日子刺肩別命は越中・利波臣氏の祖とされていますが、恐らく子の吉備武彦の北陸道親征が元となって、そのように扱われているのではないかと思われます。

湊茶臼山古墳 - Wikipedia

 

日子刺肩別命の子が吉備武彦命です。時代は景行天皇御代(350年頃)。皇子倭健命の東征に随行した人です。随行したのは吉備武彦命だけでなく、兄弟の意加部彦命、建功狭日命もでした。

倭健命と往路をともにし仙台付近まで親征を行いますが、途中焼津付近では現地の賊酋が火攻めで襲ってくるところを草薙剣で切り抜け難を逃れます。そして健命はこの地に意加部彦命を残し安堵させます。

(意加部彦命は駿河・庵原國造の祖となります)

そして帰路は信濃まで同行し、そこから倭健命本隊は諏訪湖・木曽方面へ、吉備武彦命の別働隊は飛騨から越中・越前方面へ移動し、両隊は美濃で合流しました。飛騨、越中、越前では土着の氏族を平定し、鉱山を開拓し、また伊弥頭國造や利波臣氏の祖となる親族諸氏を残しました。建功狭日命も角鹿國造の祖となりました。

また別働隊には尾張氏も加わっていたようで、東征が終わり吉備に帰る際に随行したようです。(岡山の尾針神社、尾治針名眞若姫神社がその名残と思われます)

吉備武彦命は、父と同じ操山の金蔵山古墳に葬られました。豊富な鉄器と鉄製武具が当時の威勢を伺わせます。

操山古墳群 - Wikipedia

 

吉備の古代史-4 出雲進攻

出雲振根命は飯入根命・鸕濡渟命と会う前に偽装使者と面会しましたが、大和王国の接近で人心が混乱する中、偽装使者を疑うこと無く信じ、激怒します。そして訪れてきた飯入根命を、語ること無く突き殺してしまいます。鸕濡渟命も同時に殺してしまおうとしましたが、異常な空気を察知した鸕濡渟命に先に逃げられてしまいます。逃してはならぬ!と追う出雲振根命の前に突然船に乗って川を下る弓隊が現れます。武渟川別命とその精鋭部隊でした。今度は逆に、武渟川別命

出雲振根命の首を撥ねます。止屋の淵で意宇の盟主と杵築の盟主が殺されたことで、杵築と意宇・大和の全面戦争に突入してしまいます。

がしかし、

出雲の兵士たちは海から、もしくは海岸に沿った東西からの侵入にはめっぽう強いですが、南側の山岳地帯からの侵入はあまり経験がなく、1番の弱点でした。なので伯耆国造族や東出雲の兵士たちの侵入に対しては持ち応えることができましたが、その状況を睨みながら、斐伊川上流から降りてくる吉備津彦命武渟川別命の大和王国軍には全く抵抗できず、各個撃破をくらって、西出雲の兵士たちは雲散霧消の結果となりました。

これで杵築王国は消滅。味鉏高彦根命-大穴持命が造り上げた出雲王国は意宇の国造族、ひいては大和王国に国を譲ることになりました。

そして杵築王国そのものにも、大和王国の有力部族が移住してくることになりましたが、周りの石見、波久岐(伯耆)、吉備中県(備後美作)、出雲(意宇)にも久米部族、物部部族、吉備弓削部、倭文部族などが移住し、しっかり杵築勢力を見張る形となりました。

本稿は吉備に関する内容のため出雲のことは詳しく描いていませんが、出雲大社を核とする杵築王国は、大和王国にとっては大きな障壁だったことがこれでわかると思います。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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