sohramame’s 「吉備の古代を想う」吉備氏・尾張氏

岡山(吉備)の古代史についてですが、上古代日本史全般についても書いてます

遺跡訪問-4.一本松古墳

この古墳は再訪をして、新たに勉強した内容の下に記事を書き直してます。「遺跡訪問-14.一本松古墳」をご覧ください。

 

半田山植物園の中にある前方後円墳です。植物園の風景と一体化してるのであまり古墳!とした印象はないです。5C中頃、造山・作山古墳とほぼ同時期の古墳と見られ、応神・仁徳天皇の治世の頃の墳墓だと思われます。

古墳規模から言って造山古墳作山古墳には及ばないので、造山・作山古墳の被葬者に繋がる一族の墓なのか、単なる被支配者の墓なのかは興味のあるところです。

造山(または作山)古墳の被葬者を応神朝で活躍したと思われる吉備臣の祖、御友別命と比定すると、一本松古墳の被葬者を息子で三野臣祖の弟彦と推定することもでき、出土した眉庇付冑・短甲などの鉄製武具、鍛冶具などを見るとかなり軍事的な力を持ってた様子も伺え、これは悪い推理ではないな、とも思えます。(笑)
また製鉄が盛んであったと考えられることから、伊福部氏に繋がる一族(または伊福部氏そのもの)が蟠踞した跡、と考えることもできるので、私の考える「岡山平野は尾張氏・伊福部氏が開発したのでは?」の論拠となりうる古墳だと思っています。

 

一本松古墳

遺跡訪問-3.神宮寺山古墳

この古墳は再訪をして、新たに勉強した内容の下に記事を書き直してます。遺跡訪問-9.神宮寺山古墳をご覧ください。

 

御野小学校の北東側にある前方後円墳です。(前方部の一部は小学校にとりこまれたらしいです)4C(350~375あたりか?)頃の造墓とされています。後円部頂上の天計神社は、この近くの北方村にあったものが1600年代ころに頂上部に移されたらしいです。なのでこの古墳とは本来無関係のようです。
当時には珍しく真っ平らの土地に盛り土をして造営したらしくかなり労力がかかったと思われますし、墳長も150mと当時にしてはかなりの大きさだったはずで、葬られた王の繁栄度合いが伺われます。

盗掘を逃れた出土品からは鉄の武器・農具が数多く見出されたそうですが、同時期の古墳と推定される操山の金蔵山古墳と比べると、金蔵山古墳は鉄製工具が多いのに対し鉄製農具が多く、また金蔵山古墳では出土した鉄製漁具がこちらでは見られなかったそう。稲を主とした農業に注力した王だったのでしょうか?

今は旭川の西岸にありますが、造墓当時は岡山平野のど真ん中にあった感じで、この古墳を見ながら当時の人達は王の威光を感じつつ農業に励んだのでしょうね。
wiki等にも書かれてますが4C頃が岡山平野を支配していた氏族の最盛期だったと思われ、それ以降は造山・作山のある高松・足守地域の方が繁栄したようです。
ただ、岡山平野を支配する人がいなくなったわけではなく、ダイミ山古墳(AD400前後か?)や一本松古墳(5C前半か?)などを作った氏族がこの地を開発し、金属鍛冶を行っていたようです。
尾張氏・伊福部氏と関係する(あるいはそのものの)氏族が神宮寺山古墳やダイミ山・一本松古墳に葬られたのか、はたまたまったく別系統の氏族が葬られているのか、解明されることは無いかもしれませんが、興味が湧くところです。

ちなみに神宮寺山古墳には、応神天皇の頃の弟彦が葬られているという説もあるらしいですが、ちょっと時代が違うような気もします。
(まぁ弟彦自体の生死年代も不明ですし、弟彦存命中に寿陵として造られた可能性もありますが)

神宮寺山古墳 - Wikipedia

 

遺跡訪問-2.都月坂古墳群

半田山と烏山の間、七つグロ古墳群の東側にあります。

(といっても何の仕切りも看板もありません)

1号墳は正に稜線上にある前方後方墳。4世紀第1四半期(301-325)の頃の墓らしいです。竪穴式石室の底には朱が認められ、発掘された特殊器台や特殊壺には丹が塗られていたそう。

この時期のこの地域の王の墓だったのでしょう。

この古墳群は言わずと知れた「特殊器台型埴輪」「特殊壺形埴輪」が発掘され(弥生墳丘墓とされる2号墳のものが有名なのかも)都月型特殊器台とか特殊壺と呼ばれるほど考古学的には有名なところらしいです。

前の記事にも書きましたが七つグロ1号墳よりやや後の墳墓という見解が多く、七つグロ古墳の王と同系統か親戚の関係だったのでは?と推測されていました。(出典忘れました)

箸墓古墳と同時期とされる浦間茶臼山古墳岡山市平島の東)の王が東岡山界隈を縄張りとしていた頃、この津島・伊福界隈は七つグロ・都月坂の王が支配していたんでしょうね。

ちなみに百間川あたりは湊茶臼山古墳の王が、高島・四御神あたりは備前車塚古墳の王が支配していたようです。

七つグロや都月坂の王が尾張氏や伊福部氏に繋がる部族であればうれしいですが、そのような何等の証拠もありません。

今の岡山に住んでる人たちに繋がるご先祖様だったのか、もうほかの土地に移ってしまった人たちなのか、あるいは既に絶えてしまった人たちだったのか興味は尽きないところです。

(参考)

特殊器台・特殊壺 - Wikipedia

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古代史考察-1.岡山の尾張氏 その4

前の記事で尾治針名眞若比咩もしくは尾綱真若刀婢を奉斎した神社を寡聞にして知らない。

と偉そうに書いたのですが、あっさり発見していまいました。

盲点でした。

又名の「志理都紀斗売」で調べると、割りと近くにあるじゃないですか。

 

井原市の「足次山(アスハヤマ)神社」。

公式の主祭神は安須波之神(足次)ですが、それは志理都紀斗売命のこと、らしいです。

なぜここに志理都紀斗売がいるのか?と思ってたら、ここいらは昔、後月郡や後月郷があった地。

そうか!「後月=シリツキ」じゃないですか!

なぜ今まで気づかなかったのか!ちょっと目眩がする気持ちでした。

ということは、尾張氏もしくは尾張氏系統の氏族が備後、井原の地で割拠していた、ということなのでしょうか?

私は、「尾張氏」の「尾」はその昔「シリ」と読んでいた、と思ってます。

(シリという音に「尾」の字を当てた)

というか彼らは、「シリ」という部族名であったか、「シリ」という(九州か大陸か?)の地域にいた集団だったのではないか?と思っています。

その次の「ツ」や「キ」は「津」や「城」ではないか、と推定されますが、これについては勉強中です。

(尾綱の「ツ」「ナ」も同様です。甲音・乙音の勉強が必要です)

このあたりの「後月=シリツキ」の由来をもっと調べなければなりません。

尾張系の人たちはこの地域の方で活躍していて、岡山の方にも流れてきたのかもですね)

新たな課題ができました。ワクワクします。以後、順次加筆していきます。

※追記…備後は「きびのみちのしり」と古代には呼ばれていたらしく、そこから「シリ」が発生した可能性もあることに気づきました。とすれば、尾張氏の名前も備後にいたから、という推理も成り立ちます。時代的には応仁朝以降でしょうか?尾張国造との整合性が必要になりますが・・・

 

※勉強で分かったこと…後月郡誌に足次山神社の祭神はアスキ神とかかれてました。ということは祭神は、阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)の可能性が大です。元来出雲系の神様を祭る神社だったようです。志理都紀斗売は後世の府会かもしれません。そして後月郡(後月郷)の由来については、同市高屋の近辺に後月谷という地名があって、それをもとに名付けられたらしい、というくらいしか分かりませんでした。

うーん、眞若姫と関係あるのか無いのか悩ましいところです。

まぁこれから新発見あるまでは保留ですね。

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(参考)

郷社 (倉掛自治会-足次山神社紹介)

遺跡訪問-1.七つグロ古墳群

グロは、つちへんに丸と書く漢字です。

尾治針名眞若比咩神社の参道から横にそれて、西方向に20分ほど山腹をあるいたところ、南に伸びる尾根伝いにある古墳群です。

(私が最後に訪れて3年以上経つので今は山道が無くなっているかもしれません)

9つ程発見されている古墳の内最大の1号墳が1番北側(山頂に近い側)にあり、昭和50年代に学術発掘された竪穴式の石室が見える状態で存在してました。
(正確には、8号・9号墳が最北で1号墳はその南)

1号墳の造墳時期は、4世紀初頭(箸墓古墳とほぼ同時期)と推定されてます。後に記事にする都月坂古墳(1号墳)より若干早い時期だろうと考えられてます。(近藤義郎先生「吉備考古点描」

 ということは、岡山平野にある最古の古墳であった可能性が高いです。恐らく津島遺跡の地を含む岡山平野の農耕民を最初にまとめ上げた氏族の墓ではなかったかと思います。

文字的な記録は全く無いので推測しかできませんが、元々津高あたりに居た原住民とは別に、海から来た渡来人(九州あたりからか、半島から来た人たちか)が半田山の南麓に住み着き、海産物を獲ったり稲作を始めたのが、この七つグロ古墳被葬者に支配された人たちだったのでは無いかと考えます。

このあたりにある古墳は全て、当時の内海(岡山平野と児島に挟まれた浅瀬)からよく見える位置に作られていて、舟で航行する人たちを意識して造られたものだと思います。

尾治針名眞若比咩神社と直接つながるものはありませんが、岡山に居た尾張氏か伊福部氏の祖先たちであった可能性は十分あるのでは?と思います。

(新たな知見を得たので追記)

都月坂1号墳の項でも書いてますが、この古墳の盟主は、彦五十狭芹彦命吉備津彦)とともに吉備に侵攻した氏族の可能性も十分考えられます。
具体的には、三野臣や笠臣の祖となる鴨族(天孫族の流れで葛城鴨・山城鴨の同族)の楽楽森彦の一族が吉備進攻完了後、この地を居所としたのではないか?と考えます。
半田山の南側には三野臣の本拠があったようですし(岡山市御野)、この界隈には鴨族(=天孫族)の祖、少彦名神を祀る「天神社」が散在(少なくとも延喜式の頃から)すること、からです。
(ほとんどは、宝賀先生の受けウリ)
そして、都月坂1号墳よりは、弱冠七つグロ1号墳の方が先行するかもということで、この七つグロ1号墳はもしかしたら、吉備進攻・温羅征伐で活躍した楽楽森彦の陵墓であったのでは?と思うのです。
前方後方墳というのも、吉備津彦命の臣下という格に相応しいと思いますし。
そして楽楽森彦の妹の高田姫が吉備津彦命の妃となり、彦刺肩別命を産み、死後、網浜茶臼山古墳(彦刺肩別命)と操山109号墳(高田姫)に葬られたとすれば、位置的には整合が取れるな、と思うのです。
そう考えると、今の岡山市街地の古墳にもワクワクしてきませんか?

 なお、そう考えた場合は、私の好きな尾治針名眞若姫や尾張氏・伊福部氏たちは半田山南麓ではなく、今の尾針神社のある京山東麓を居所としていた、と考えざるを得ません。
今の尾治針名眞若比咩神社は(本来あった場所は不明ですが)元々、今の場所では無かったと考えるのは少々残念ですが、そういうことなのでしょう。( ˘ω˘ )
*延喜式に記述されてますのでどこかにあったことは間違いないと思います。どこだったのでしょうか?

 (参考)
七つグロ古墳群-「古墳のお部屋」平家蟹氏ブログ

古代史考察-1.岡山の尾張氏 その3伊福部氏

五百城入彦皇子とはどのような人か?御名代と言われている伊福部氏とはどんな部族か?岡山の伊福部氏は何をしていた人たちか考えてみます。(勉強中につき順次内容を追加していきます)

五百城入彦皇子

 

伊福部氏ー全国にいたようだが、実態は様々だったのでしょう。

皇子の御名代だった部族もいれば、製鉄、石作、雅楽、他色んな職掌の部族がいたようです。また全国一系統ではなく、いくつかの系統があったと思われます。

岡山の伊福部は、独自の系統であったのかも知れませんし、鳥取や近畿から流れてきた人たちであったのかもしれません。

どちらにしても、岡山にいた伊福部氏は製鉄(製銅)を行なっていた人たちだったと思っています。

(伊福部氏=息吹部説)

住んでいた場所も、京山の麓から津高・金山にかけて割と広範にいたのではないかと思っています。

 

(参考)

五百城入彦皇子 - Wikipedia

石作氏と伊福部氏 | Tomのスペース

 

古代史考察-1.岡山の尾張氏 その2

考察② 「考察①う」の続きです。

鳥取からか奈良からか滋賀からか、もしくは最初から独自の伊福部氏が岡山に存在したか、その辺は全く不明ながら伊福部の一族が、同じ系統の尾張氏の祖先神を奉斎したのかもしれません。

尾治針名眞若比咩神社の祭神が尾綱真若刀婢とすれば、この人は五百木入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、伊福部(五百木部)は五百木入彦皇子の御名代であった可能性もあり、それで尾綱真若刀婢が奉斎されたのかも?と推測はできます。さらに尾綱真若刀婢を奉斎するなら、尾綱根命も奉斎しようよ!となったと考えられなくはありません。

(参考)

トベ - Wikipedia

 

もしこの仮定が成り立つとすれば、私の頭はとてもスッキリします。

ただしこの仮定に対する疑問もあります。

日本のあちこちに伊福部氏が存在した痕跡がありますが、なぜ岡山に居た伊福部氏だけが、「尾綱真若刀婢・尾綱根命」を奉斎したのか?です。

私が不勉強なだけかもですが、寡聞にして「尾綱真若刀婢」を祀った神社の存在を知りません。(尾綱根命は針綱神社等で祀られてますが)

何か岡山の伊福部氏だけが持つ「尾綱真若刀婢」に対する特別な思い入れがあったのでしょうか?

 

ここに私は、ロマンを感じます。

「尾綱真若刀婢」もしくは彼女の存在に類似するような女性が古代の岡山で活躍したのでは?と。

尾張氏系図を信じれば、時代は4世紀後半。応神天皇が頭角を現し始めた頃のはずです。

(後の記事で書くと思いますが、応神天皇神功皇后の子ではなく、皇族ながら、それまでの天皇系統とは別の系統で、播磨あたりで生まれ育った人だと考えてます)