神社訪問-3.高蔵神社、本宮高蔵(高倉)山

吉備上道氏の古墳訪問の締めとして(一本松古墳残してますが)、高蔵神社に訪問しました。なんで高蔵神社?吉備津彦神社じゃないの?と思われる方も多いと思いますが、理由は後述。

で、現在ある高蔵神社には既訪問なので、今回は神社経由で本宮高蔵山(頂上)に頑張って足を伸ばしてみました。ただ1点、神社から目的地まで地図で見ると道がない…ある程度進めば高蔵山頂上に車で上がれる道があるのは分かってはいたものの凄く不安…ネット情報ではちゃんと林間道があるみたいだけど今現在でも通れるのかそれも不安…と心細さを感じましたが、頑張って神社の裏手から進んでみました。

そしたら、(経過の写真は載せませんが)地図に記載のなかった林間道は割とすんなり進めて、林を抜けてから高蔵山頂上車道に出る山道が草ボーボーで、それを何とかくぐり抜けて車道に出て、牟佐の登山口から1.5時間ほどで高蔵山頂上にたどり着きました。良かったー。

で、想像してた通り本宮らしきものは存在しませんでした。

頂上には3つの電波塔と、ライオンズグラブが作ったであろう看板と本宮があったと書かれた教育委員会の看板のみ。しかし付近を散策してみると、ハンググライダー離陸場があってその途中に磐座のような石群がある。「もしかしてここ?」の心境。

ただ、ここからの南方、西方の眺望が抜群でした。なので、この石群が本宮の磐座なのかな?と一人で納得しました。説明看板も無く、注連縄も無く、少し拍子抜けではありましたが。もし他に隠れた磐座がこの頂上の界隈にあるのでしたら、どなたか教えてくださいませm(_ _)m

ということで往復3.5時間ほどで牟佐の登山口まで戻ることができました。

 

高蔵山は吉備上道氏の聖山、高蔵神社は上道氏始祖をお祀りするお社だと、私は考えています。(勝手に断言( ˘ω˘ ))

初祖の吉備津彦命からでは無く、2代目日子刺肩別命の頃からかもしれませんが、この聖山に登って国見をしたんだと思います。

そして浦間茶臼山古墳界隈の平野から、操山北側の平野まで見渡して吉備(備前)の経営計画を立てたに違いないと思います。

*上道氏繁栄の最後の首長だったであろう田狭臣がこちらの麓に両宮山古墳を造ったのも、自然なことだと考えます。

高蔵神社は現在の祭神が、神武東征に随伴し尾張氏の祖とされている高倉児(高蔵下)とされていますが、それは後世に高蔵山の名から当てはめたのでしょう。本来は、吉備氏の祖「大己貴命」や「大物主命」でありそれらと共に「吉備津彦命」もしくは「大吉備諸進命」が祀られていたのではないでしょうか。

現在の備前一宮「吉備津彦神社」がある吉備中山は下道氏の初祖、弟・吉備津彦命彦狭島命)の陵墓(中山茶臼山古墳)がある下道氏の聖山であり、上道氏の聖山は、吉備中山ではなく、こちらの高蔵山であるはずです。

とは言え、吉備津彦神社は、千年近く備前一宮として尊崇されてきたのですから、それを否定する気持ちは全くありません。私も年始にはお参りさせていただいております。

ただ、こちらの高蔵山も備前を発展させた上道氏が聖山と崇めた場所で、吉備津彦神社と同じように多くの人々にお参りいただけたら嬉しいなぁ、と思っています。

同時に、現在上道氏が聖なる山と崇めた証が何も残ってないのは、残念に思っておりますが。

(高蔵神社・本殿)

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(本宮高蔵山・説明看板)

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(頂上、磐座群かな?)

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(南方、岡山平野)

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遺跡訪問-13.両宮山古墳

備前最大の前方後円墳、両宮山古墳(墳長206m)は兄・吉備津彦命の陵墓と思われる浦間茶臼山古墳と同じく国の史跡に指定されてます。

初代と衰退直前の代の陵墓が共に国指定とは胸熱…いや誇らしいことなんですけどね。

流石に備前一の古墳だけあって見た目も美しく、見やすいように整備されてる…と思いきや、墳丘に至る道がショボいこと、ショボいこと。見学通路はあるんですが「ここ私有地じゃないの?」と思ってしまう草ボーボーの道。(まぁ進むに困難な道ではないですが)発掘調査から月日が経つとこんな状態なんですね。

で、前方部両宮神社に至る参道を発見し、無事お参りできました。(両宮神社参道は見学通路からしか行けません)

次に、神社から墳丘歩いて回れる道が無いかな?と探してみましたが、無いんですね。墳丘は外から眺めるしかないと悟り、それからぐるりと一周して見学終了です(木々ボーボーで墳形は全く分かりませんが)。途中陪塚の和田茶臼山古墳も登りました。

この5世紀後半造墓と思われる両宮山古墳は上道氏臣田狭(たさ)の陵墓と思われます。墳丘に葺石や埴輪が認められないのは雄略天皇の治世下で、濡れ衣を着せられて厳しい弾圧を受けた証拠ではないかと考えます。

※濡れ衣とは、吉備の古代史-6 兄・上道系統をご覧ください

恐らく田狭臣は領民から崇拝され、またヤマト王権の中でも確たる地位を築いていた、上道氏中興の人だったのだと思われます。墳丘の大きさ、二重周濠、雄略天皇の陵墓と思われる河内大塚山古墳と同じ企画で造られていること、がその理由です。

※巷の資料には、仁徳天皇の陵墓と知定される大仙陵古墳と同一企画とよく書かれてますが、大仙陵古墳よりは河内大塚山古墳の方が相似しています

そして中興したと同時にヤマト王権に反抗したとして懲罰的に墳丘の装飾を省かれてしまったんだと思います。後円部の主体部の調査はされてないそうなので、ここに埋葬すらされて無いのかもしれず、それで埴輪等がないのかもしれませんが。また上道氏は以後浮上できなかったようで、田狭臣の子孫の陵墓は規模を縮小しています。(両宮山・高月古墳群wikipedia

主体部の調査が行なわれて、埋葬の有無がはっきりすると嬉しいですね。この古墳に埋葬されたのか?任那で亡くなられたのか?上道氏、吉備氏の謎解明のために大事なことだと思います。

立派な美しい古墳でしたが、上道氏のその後の状況や、古墳の現在の姿を考えると少し物悲しい雰囲気の漂う遺跡でした。

 

-両宮山古墳 wikipedia

 

(前方部東角と内濠)

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(前方部両宮神社鳥居)

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(後円部、南→北方向)

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宝賀寿男著 巨大古墳と古代王統譜

(様々な角度からの巨大古墳の比定と古墳築造企画の解説が掲載されています)

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遺跡訪問-12.玉井丸山古墳

ここは墳丘そのものが削平されて瀬戸町郷土館や大学の建物が建てられていて、さらに昔は小学校があったそうですが、墳丘にもすぐに上がれます。墳頂は約130mのようですが、正直、どこからどこまでが墳丘かはよく判りません。

なので"古墳"という雰囲気は全くありません。強いて言えば、後円部斜面にある「がらん様」と言われる石塔群とその近辺にあった石室を構成していたかもしれない石らしきものがあったくらいで、墳形も明確にはわからない状態、遠くから見れば"前方後円墳"かも知れないね、という感じでした。

しかし、郷土館(瀬戸町の歴史的遺産の展示館)ではしっかりと埴輪や土器、鉄滓などの発掘物が見られますのでここを訪問すれば、古代の雰囲気に浸れます。(ただし開館日は毎月第2・4日曜のみ)

で、こちらの古墳については行く前から感じていましたが、実際訪れてさらに疑問を深めました。

①金蔵山古墳、神宮寺山古墳に続き、両宮山古墳の前にあたる古墳と思われますが、造られた位置がちょっと中途半端な印象である

②私の比定(=宝賀先生の比定でもありますが)では葦守武彦命の陵墓とさせていただいてますが、何となく違和感を感じる

です。(後述で追記しています

①については、

浦間茶臼山古墳と操山古墳群、両宮山古墳を結ぶエリアから外れているわけではないけれども、南と北の平野からは少し離れた山間部の狭い平地に在り、首長の威光を輝かせるには少々役不足の地に思われます。なぜこの場所に?の想いを拭えません。そこで考えてみました。

・それまでの中心地であった上道平野に何か天災が起き(地震津波、洪水など)、一時的にでもコメの生産が不能になったため、やむを得ずこの地を開発し、次の代には赤坂平野を開発し拠点を移していった。

・上道氏の本宗以外にも力を蓄えた氏族が台頭し(例えば上道氏と婚姻同族化していた三野氏)上道平野の支配を奪っていった。もしくはヤマト王権の直接支配の力が強くなり、上道平野から追い出されていった。

そういう理由があって急遽、止む無くこの狭い平地に拠点を移していったのかもしれませんね。現時点では、そう考えておきます。

②については、

神宮寺山古墳に継ぐ古墳である、という点と上道氏の本宗系統が浦凝別命-葦守武彦命(-稲生臣-田狭臣)となっていることでの比定ですが、"葦守"という名が下道氏の系統の人の名(通称)で、上道氏のこの代の人の名は別にあるのではなかろうか?という疑問です。

まぁ持論があるわけではなく、私の単なる疑問なのですが、これからもこの点については勉強していきたいと思っています。

追記:この古墳と両宮山古墳を実見して考えが変わりました。玉井丸山古墳は田狭臣の父"稲生臣"の陵墓で、葦守武彦命の陵墓は神宮寺山古墳の北にある一本松古墳と現時点では考えております

なお、この古墳の主体部から発掘されたものはなく(主体部が発見されたかも不明ですが)、円筒埴輪が採取されたのみのようで、もしかしたら上道氏の衰退がこの頃から始まったのかも知れないと思わせる現状であります。

玉井丸山古墳(瀬戸町観光文化協会)

(墳丘手前の石碑)

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(後円部斜面のがらん様)

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(古墳遠景-後方部左後方から)

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遺跡訪問-11.宍甘山王山古墳

完全に存在を忘れていた宍甘山王山古墳を訪問しました。

忘れていたくらいですから比定はできていません。

(こんな感じでは?くらいの推測は後ろで)

東岡山駅の東北、新幹線のトンネルが通っている山(宍甘山?)のほぼ頂部にあります。麓からは古墳の姿は見えません。

で、こちらはまず墳丘に至る山道がわかりづらいです。

というか新幹線高架に近いふれあい公民館?の下からの山に入っていく道がありますが、これが途中で雑草が生い茂って行けない。

(藪漕ぎする勇気があれば行けると思います)

仕方ないので少し北に移動して民家の間の道を入っていけば先程の山道とつながる道がありましたので、そこから登れました。

(も少し北に、他にも山道への入り口はあるようです)

この山道は途中までコンクリートで固められた道でその上に落ち葉が堆積してる感じで、しばらく登ると左手に大きなブドウ畑が見えてきます。その畑が見える少し手前に右に上がる道があり、それが古墳に至る山道でした(コンクリート舗装はされてません)。

さらにしばらく登るとくびれ部から後円部に山王社が見えてきます。

お参りして墳丘の写真を撮って参りました。

 

この古墳は困りました。比定すべき明確な人物が思い当たりません。

訪れて実感できましたが、墳形は吉備津彦命の浦間茶臼山古墳と同じ形です。つまり初期の古墳に近いものです。そして採取された埴輪は都月型よりやや新しいものだったらしいです。

先の車塚古墳を吉備建比売の陵墓ではないかと推測しましたが、この古墳の存在を思い出した時、こちらの方が吉備建比売の陵墓に相応しいと思ったのですが、

※思った理由は、①功績のあった皇族・倭健命の妃であれば前方後円墳であってもおかしくない②金蔵山古墳・車塚古墳とともに上道平野を見下ろす古墳である、です

墳形・埴輪から考えると初代・吉備津彦命か2代目・日子刺肩別命の頃の人の陵墓ではないか、となってしまうのです。

また墳長がやや小さいのも比定を困難にする要因です。

※困難な理由は、初代か2代目の男子で首長になれなかった系図に現れない人が居たか、同じく系図に現れない女子が居たか です。

なので現時点では、

①吉備建比売の陵墓で、墳形は浦間茶臼山古墳よりも倭健命の津堂城山古墳に相似、埴輪は吉備建比売の時代よりも少し古いものが混じっていた(先行して作られていた)と考える。

②2代目・日子刺肩別命の兄弟姉妹で系図に現れない人の陵墓であった。(日子刺肩別命の網浜茶臼山古墳が穴海からよく見えた様に、この宍甘山王山古墳も大多羅方面の穴海からよく見えたと思われます)

と考えておき、さらに勉強して考察を深めたいと思っています。

ただ、浦間茶臼山古墳とも相似した前方後円墳で、浦間茶臼山古墳より後のものとなれば、吉備氏(上道氏)の古墳であることは間違いないと、ここは割りと自信を持って思っています。

宍甘山王山古墳(岡山シティミュージアムHPより)

 

(古墳遠景)

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(後円部山王社)

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遺跡訪問-10.備前(湯迫)車塚古墳

倭健命の東征に随行した吉備武彦命の母or妻or妹・吉備建比売の陵墓と思われる備前車塚古墳を訪問しました。

(今回デジカメが一時故障したため写真ありません)

(被葬者が、恥ずかしいから写真を撮るな!と警告されたのかも?)

事前にネット情報を調べたら「道がわかりにくい」と載ってたので、難航を覚悟して行きましたが、そんなこともなく。

四御神の大神神社あたりから北に坂を上がると、一般的な地図に載ってる池の南に「車塚公園」があります。そこから(明確な目印は無いですが)古墳に向かう山道があるのでそれを登れば分かりやすく古墳に辿りつきます。もちろん急勾配できついですが、藪漕ぎするようなこともなく、細いですがしっかり固められた道で、途中から模造の木の石段があり、またベンチもありますから迷わず登っていけます。

※4つある鉄塔のうち1番東のもののさらに東から登っていく感じです。たぶん3・4番目の鉄塔あたりからも登山口はあると思います。

墳丘にたどり着き前方部・後方部を散策するのは草木が生い茂り、藪漕ぎしなければならない部分もあります。また下りも急で落ち葉も多く滑りやすいですから、ここを訪問する際は、しっかり山登りする服装で行った方が良いです。(重装備は不要ですが(^^))

墳丘・墳頂は一応歩いて回れますし、形も何となくわかりますが、葺石以外は特に目を見張るものはありません。訪問時と退去時にしっかりご挨拶されると良いと思います。

 

記事の最初に推定の被葬者を記しましたが、この古墳の特徴は、

①4C後半の前方後方墳である

②鉄製品も出土してるが、それよりも三角縁神獣鏡の出土枚数の多さに注目。

③この山と操山に挟まれる上道平野(ほぼ現・中区)を見下ろせる古墳である

という点からの推測です。

 

①は、資料等には4C初期、吉備最古の古墳という資料が多いですが、前方後方墳という形や出土鏡の同型鏡の出土地から見て50年位は下がる4C後半、吉備武彦命の時期ではないかということ、

そして前方後方墳前方後円墳の1つ格下の陵墓で、吉備氏の場合は、首長の親族(または配偶女子)もしくは配下の氏族の陵墓ではないかと考えます。

吉備武彦命の母や妻の名前は伝わってないようですが、妹は倭健命の妃、吉備建比売(吉備穴戸武媛)です。私は妹の線が強いと思っています。

※宍甘山王山古墳を訪問して考えが変わりました。こちらは今のところ吉備武彦命の母か妻の陵墓と考えておきます。

②の三角縁神獣鏡出土から、年代を遡上して捕らえられているのではと思いますが(卑弥呼の鏡との関係上)、古墳時代が始まってから(言い換えれば崇神天皇の時代以降)の三角縁神獣鏡ほぼ国産(仿製)でヤマト朝廷の版図拡大に伴う服属儀礼で配布されたものでは?と考えます。吉備武彦命はそれを配布する側の人だったので、その親族は沢山の配布用の鏡を持っていたのでは無いか、という推測です。

③は、金蔵山古墳(吉備武彦命)とともに上道平野を見下ろし、勢力の誇示と見られるので、吉備武彦命に近い人ではないか?と。

麓にある大神神社は、その陵墓を護持・祭祀する遥拝所として古代から存在しているのかもしれません。(少なくとも延喜式に載ってます)また先記事の「神宮寺山古墳」は、この古墳や金蔵山古墳とともに、上道平野を守護する「西の要」として作られたのかも知れませんね。

 

備前車塚古墳 - Wikipedia

(今回は写真ありません)

(後日遠景を撮影しました)

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遺跡訪問-9.神宮寺山古墳

倭健命の東征に随行した吉備武彦命の子、浦凝別命(兄・吉備津彦から見て曾孫)の陵墓と思われる神宮寺山古墳を訪問しました。

古代には三野と呼ばれた地で旭川の東岸に位置したと思われ

旭川の一番大きな流れが岡山総合グラウンド辺りを流れていたとしてです)、今は岡山市街地の中に位置する前方後円墳(150m)です。上道氏のテリトリーのほぼ西端で、上道氏首長の陵墓としては少し西に寄り過ぎの感は無くもありません。

それまで上道氏首長の前方後円墳は、山上・丘陵地に自然地形を利用して墳丘を形作っていたのですが、この代になって(小さな丘であったらしいですが)ほぼ盛り土で墳丘を整形しているのが大きな変化です。決して洪水の少なくないこの平地に墳丘を築き、それが今でもほぼ形を保っているのは凄いことだと思います。

吉備武彦命から続く上道氏の繁栄がこのような大工事を可能にしたのかもしれませんし、もしくは同じ代の下道氏の首長・御友別命が応神天皇の助力を得て繁栄し、巨大墳墓を作ったのに同調して(こちらもヤマト王権の支援を得て)今までにない墳墓を築けたのかもしれません。

主体部は十分には調査されていないようですが、副室等からは金蔵山古墳に匹敵するくらいの鉄製品が出土しています。浦凝別命の"凝"は金属鍛冶を司ったという意味であり、稲作に加えて鉄武具・製品を大量に作る、経済基盤にしたのであろうと推測されます。

この頃が上道氏、下道氏ともにブイブイいわせて大繁栄した時期であると思われますし、後に増長し雄略天皇の抑圧に繋がったのではないでしょうか。次代(玉井丸山古墳)・次次代(両宮山古墳)を最後に上道氏テリトリーからは大型前方後円墳は消えます。

神宮寺山古墳 - Wikipedia

(古墳遠景(旭川土手から後円部墳丘))

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(後円部頂・天計神社)

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遺跡訪問-8.金蔵山古墳

彦五十狭芹彦命(兄・吉備津彦)の孫であり、倭健命の東征に随行した、吉備武彦命の陵墓と思われる金蔵山古墳を訪問しました。

こちらは操山ハイキング(トレッキング?)コースの中にあり、そんなに重要な見学ポイントの扱いは受けていないものの、しっかりと説明看板や案内標識が立っているので、距離は少し歩かないといけないものの、割とわかりやすく行ける場所にありました。

しかし、平成になってから何度も調査されているものの後円部墳頂に赴く道はあまりはっきりしておらず(古墳に上がる道はこれしかないように思われました)、また林の中にあるため、古墳の輪郭・全体像はわかりにくい状態になっており、これまでの上道氏関係の古墳と同じように不遇な扱いを受けている印象でした。

元々山の中腹に作られていて、今は林の中に埋もれているのも、存在がわかりにくく、その偉大さが伝わりにくい要因なのでしょうね。

主体部の石室は既に盗掘を受けており、盗掘されたままの状態になっているのも少し物悲しさを感じます。

盗掘されたもの以外の発掘物は文献をご確認いただけたらと思いますが、倭建命の陵墓と推測される津堂城山古墳と似た形象埴輪、鍬形石、変形神獣鏡を出し、他にも豊富な鉄製品・武具が発掘されており東征に随行した吉備武彦命の陵墓らしい副葬品がでているようです。

※平野部にある神宮寺山古墳も部分的発掘ながら大量の鉄製品を出しており、こちらも同時代の大首長の陵墓かと思われますが、金蔵山古墳の方がわずかに先行し、出土品の種類も豊富であるようです。

吉井川に近い浦間界隈から操山・龍ノ口山・高蔵竜王山の麓に広がる上道平野(原岡山市中区・東区・赤磐市山陽町)に拠点を移し吉備の地を豊かにしながら、同時に大和王国の更なる領土拡張に力を貸す上道氏の日毎の繁栄が見えるような湊茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳、金蔵山古墳でした。(そして神宮寺山古墳の頃に絶頂を迎えるのでしょう)

※この金蔵山古墳のある辺りの地名は、沢田字竜王というらしいです。近くには高倉山があるようですし、古墳の森ふれあい広場には八大龍王・妙見菩薩の碑もありますので上道氏に関する陵墓であることは確実ではないかと思います。

 

操山古墳群 - Wikipedia

(後円部墳頂に向かう山道)

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(後円部墳頂・盗掘された主体部石室と思われる穴)

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