イワレヒコ-神武東征 第2部「紀ノ川遡上-宇陀 建国の士集う」

イズセ(五瀬命)の死後、イワレヒコ一行は紀の川河口から遡上し、吉野~宇陀へのルートを進みます。

#イワレヒコ 21
名草邑のナグサヒメは静かに現れたイワレヒコ一行を追い払うべく
一斉に弓を射かけてきた
イワレヒコは最初から
矢を受ける囮隊と敵の背後に回る別動隊に分け
ナグサヒメ達を挟撃しこれに勝利した
ヒメは自決したが部下の女性兵士は
先々役に立つと考え自軍の兵士とした

#イワレヒコ 22
名草邑からあまり離れてない
紀伊水道紀の川が見渡せる小高い丘に
兄イズセを葬った
窯山というところ
ここから紀の川を遡上して
吉野から神の住む大地へと入り込む
名草女兵に聞くと途中に丹が沢山取れる邑があるそうだ
兄に別れを告げてイワレヒコは出立した

#イワレヒコ 23
河を遡上するため珍彦の指示で海舟を改造や
河船を新た入手し終え出発しようとした直前
眼に黥を施した体格の良い男が現れ
帰順と道案内役を申し出ました
名草邑の近くに住み、イワレヒコ軍の話を聞いて現れたようです
イワレヒコは彼を「サケトメ」(道臣命)と名付けました

#イワレヒコ 24
サケトメ(道臣)の案内で紀の川をゆっくりと遡るが
イワレヒコは丹の事が気になって彼に問うた
この先、狭野(かつらぎ町)の奥に
隈野(くまの)という地があって
そこでニウヒメの一族が丹を造ってるとのこと
イワレヒコはイズセのために入手したいと考え
そこに向かうことにした

#イワレヒコ 25
イワレヒコは丹に不老不死の力があるので
もしかしたら兄も蘇らせられるかもと淡く期待していた
だから隈野に寄り道しようと思った
サケトメは自分の庭のようにスイスイ進んでいく
イワレヒコはそれに附いて行く
珍彦は慣れない土地であるのと
行く手に不安を感じてゆっくり附いて行く

#イワレヒコ 26
隈野の森では何かを燃やしてる灯がついてて
不気味に明るい
いつの間にかサケトメの姿が消え
何か大きな影がユラユラしてる
そして急に周りの者が咳き込んだり、ふらついたり
何かおかしいぞ?!
イワレヒコは直感的に丹が煮えて毒を発してる
と感づいて布を口に当て姿勢を低くした

#イワレヒコ 27
ユラユラする影がいきなり大きくなってイワレヒコに突進してきた
寸前でかわしてじっと見るとそれはサケトメだった
ナグサヒメの弔いじゃ、貴様にはここで潰えてもらう!
と斬りかかってきた
が、そこに割って入ってきた者がいた
それを見て
タグリヒコ!待ってたぞ!
珍彦が叫んだ

#イワレヒコ 28
タグリヒコと呼ばれた石川五右衛門風の男は
サケトメの剣を払いのけその喉元に自身の剣を突き付けた
サケトメも大柄で力はあったが一瞬で勝負がついた
イワレヒコは言った
名草邑を蹂躙したのは、吾の望みを果たすため
すまなかったが、これからは吾のために生きてくれぬか?

#イワレヒコ 29
サケトメは観念して身を投げ出したが
イワレヒコは殺そうとはしない
仕方なくサケトメは悲しそうに消えて行った
珍彦はイワレヒコに
タグリはわしの従弟です
必ずイワレヒコの力になれると思い
わしらに同行するように頼みました
いやぁタイミングよく現れてくれて助かった
と言った

#イワレヒコ 30
タグリ(高倉下)はイワレヒコにひと言
ウッス
と挨拶した
愛想ないなーと思いながらも
立派な剣を持ち、剣豪の風貌した彼を頼もしく思った
ニウヒメはナグサヒメと同一人物で
ここもテリトリーにしてたらしい
後日、丹をもらい受ける約をして
隈野を後にした
目指すは中洲(大和)

#イワレヒコ 31
伊都国を出たときは20人程だった一行も
今は100人を優に超える軍団になっていた
そんな大勢でワイワイ河を遡るから自然と注目を浴びる
そして邑からあぶれた者達がさらに仲間に加わる
鳥の羽を形どった帽子をかぶったエヒコ(八咫烏)も
そんな1人だった
こっから先はオラが案内するさ

#イワレヒコ 32
吉野川の流れになってからエヒコ(八咫烏)の案内で
さらに河を登る
そしてエヒコが先頭に立って歩くと
どんどん共に歩む人が増えてくる
ニェモ、イヒカ、イワオ
みんな河で生活する、エヒコの友達だった
イワレヒコは大所帯になっていくのを
前途洋々の兆しと思って楽しんでいた

#イワレヒコ 33
エヒコがイワレヒコに言った
ちょっとあの高い"岳さん"に登りましょうや
頂上に着くと北西に中洲(大和盆地)が広がっていた
ここが兄の求めた理想郷かぁ
イワレヒコは涙ぐみ、そして奮い立った
エヒコは
ちょっと遠回りだけど少し東に進んで
仲間をもう少し集めましょう
と言った

#イワレヒコ 34
一行は吉野川から高見川を遡り、宇陀に向かった
エヒコは
宇陀にウカシ兄弟という、あっしの親せきがいるんでさぁ
そいつらに加勢を頼みましょう
中州に入るまでも、入ってからも
争わなけりゃいけない敵は沢山っす
ちょっとあっしは先に行って話付けてきまっさ
と言い風のように消えた

#イワレヒコ 35
半日ほどしてエヒコが戻ってきた
ウカシの弟は一つ返事で承諾!だったけど
兄の方はしぶしぶ、まぁいいよって感じでさぁ
とにかく行って挨拶しましょうや
と言うので
イワレヒコ一行は、少し不安に感じながらも
川に舟を留めて
山に挟まれた街道を北上した
珍彦は周囲を警戒していた

#イワレヒコ 36
崖の上の方で悲鳴がして大きな岩と人が降ってきた
イワレヒコ一行は全員無事避けきれた
エヒコはすかさず言う
こいつエウカシじゃねーか?なんで落ちてきて死んでんだ?
その後崖をゆっくり大きな男が降りてくる
丹生邑で消えたサケトメだった
イワレヒコを見て驚いた顔をしてる

#イワレヒコ 37
イワレヒコは経緯を聞いた
サケトメは
丹の取れる石を探してたら岩を落とそうと潜んでる男を見つけて
何やら悪い事が起こる予感がしたので
さらに上から私が岩を落としてやったんです
男は岩と共に落ちましたが
その下にイワレヒコがおられるとは
イワレヒコはサケトメに感謝しました

#イワレヒコ 38
やはり私の仲間に加わり
私の夢を手伝ってくれないか?
イワレヒコはサケトメを再び誘った
イワレヒコに再会しこうしてお救い出来たのは
縁かもしれません
国造りのお手伝いさせて下さい
サケトメはこう応え、新たな呼び名をいただいた
ニヒコ(丹彦)と
名草の戦士の隊長となった

#イワレヒコ 39
意気揚々とイワレヒコは一行と共に宇陀に到着
オトウカシ(ウカシの弟)は邑の入り口で頭を伏して待っていた
恭順を誓ったのに
兄がバカなことをして
お許しください
全員を招いて恭順の宴を開き
中洲連合についての情報をお伝えします
さぁどうぞお入りください
珍彦も宴と聞き喜んだ

#イワレヒコ 40
宴は大盛り上がり
鴫だ!鯨だ!と大騒ぎ
が、オトウカシが話始めると急に静かになった
この先中洲に進めば
あちこちの高台で兵士が待ち構えてます
イワレヒコ一行も強そうですが
中洲連合は人数で優ってます
イワレヒコは応えた
吾達は一度負けた
だからこそ負ける訳にはいかない、と

(第3部に続く)

イワレヒコ-神武東征 第0部「創世」

イワレヒコ(神武天皇)が東征を始める前の舞台(状況)です。創作ではなく、これが真実の歴史!と思って書いてます。

#イワレヒコ 0-1
紀元2世紀(AD100前後)原始邪馬台国
高天原久留米市高良山付近)に都を構え(卑弥呼の150年ほど前)
栄えていたが
そこからイワレヒコの祖父ニニギが分家して
偶然か必然かは不明も糸島半島の「日向(ひむか)」で
伊都王国を打ち建て原始邪馬台国連合の一国となった

#イワレヒコ 0-2
イワレヒコの祖父はニニギ
父はホオリで
豊玉媛との間の子がナギサ
玉依媛との間の子がイズセ、イナヒ、イワレヒコ
イワレヒコの東征完了までの名はわからない
サノ?ホホデミ?イワレ?
Tweetでは便宜的にイワレヒコと呼んでいる
既に妻子がいたが東征には随行してない

#イワレヒコ 0-3
邪馬台国分家の伊都国は
父ホオリ、兄ナギサが宗家として継いでいる
庶子のイズセ、イワレヒコは国を継げないので
出奔して東に新天地を求めた
それがA.D.175の頃で、イワレヒコが20歳過ぎの時
卑弥呼が登場するのはその50年後
ちなみにイワレヒコの崩御はA.D.194頃

(創世-終)

イワレヒコ-神武東征 第1部「船出-手痛い敗退」

Twitterで呟いてるイワレヒコの物語風東征説話をこちらに転載します。

#イワレヒコ①
20歳を過ぎたばかりのイワレヒコは伊都から玄界灘を見渡しながら
この国では王にはなれないので東に新天地を求めに出立する
兄のイズセノミコトに向かって言った
「兄ちゃんについてく、んで兄ちゃんが東の王になれるように
吾は陰から支えるよ!ここが出発地だね」
兄は静かに頷いた

#イワレヒコ②
伊都から数日で岡水門(洞海湾)に着いた一行
ここで食料や武器を調達していたが、次兄のイナヒノミコトが突然言った
「やっぱワシはイズセ兄とは別行動で身を起こしてみるわ
とりあえず先祖が来た北方向、新羅あたりにでも行こうかな」
イワレヒコはイナヒの突然の発言にポカンであった

#イワレヒコ③
兄イズセ&配下の者達と共に岡水門を起ったイワレヒコ
関門海峡を抜けると偶然に宇佐津彦・媛に出会い彼らの島に招かれた
柱1本で壁の無い宴会場で歓待を受けたが一行は先を急ぎたかった
宇佐津彦は「まぁ焦りなさんな、わしの子分たちに瀬戸を案内をさせよう、役に立つよ」と嬉しい提案

#イワレヒコ④
宇佐で瀬戸の案内役を借りて一行は瀬戸の北側を進み阿岐に着いた
ここに人はいたがあまり多くなかった
イズセは「眺めがええのー、こりゃ気持ちが滾るわ、やけどここは伊都からまだ近い、も少し東に行きたか」と言った
イワレヒコは(ここでもいいんじゃない?)と思ったが黙っていた

#イワレヒコ⑤
一行は後に児島と呼ばれる島の北側に着き上陸しようとしたが、人が多い
伊都も多かったが同じくらいいる
もし争いになったら吾たちは勝てるだろうか?
今のイワレヒコ達では勝てる自信が無かったのでそこでの上陸を諦め
島の南側に回ってひっそり上陸した
ここは大丈夫そうだ

#イワレヒコ⑥
イワレヒコ一行は高島(後の児島)の南側で
北に広がる平地にいる民衆たちの偵察
自分たちと共に戦える人員の増強(近隣の島から戦闘員集め)
武器の増強をするためじっくりとここに留まった
イワレヒコはこの地にあまり魅力を感じてなかったが
次への飛躍のためと我慢の日々

#イワレヒコ⑦
一行は十分な戦闘員を集められたので、高島の北側の平野に進攻し
これを平らげることが出来た
ただイズセもイワレヒコもこの地に留まる気持ちはなく
増えた一行の食糧・武器をこの地で十分に確保できたので
さらに東へと進んだ
しかしこの高島で1年ほど時間が過ぎてしまった

#イワレヒコ⑧
高島を出て、イワレヒコはイズセから囁かれた
瀬戸を日縦に渡れば東陸に突き当たる
その山を越えれば金(鉱脈)や朱(水銀)がたんまりあって
そこで王国を築けるんだ
だから吾はさらに東に向かおうと思う、と
イワレヒコは朱が不死の力を持つと信じており
永遠の命を手にできると喜んだ

#イワレヒコ⑨
一行が明石海峡が見えるあたりまで来た時一艘の船が近づく
おまえさんがたー大勢でどこ行きなさるねー?
イズセが応える
吾達は海峡渡って東に上陸するが?
えー?大勢で海峡入ってったらここの主に止められ皆捕まるちゃー
と、珍彦という漁師か海賊か分からないやつが大声で言った

#イワレヒコ⑩
珍彦は明石海峡を牛耳ってる親玉だった
イワレヒコ達が凡人であれば略奪してやろう、と思ってたが
何か大きなことをやってくれそうな魅力の兄弟だった
だから珍彦は難波の岬まで案内を買って出た
ワシたちが付いてりゃ百人力でさぁー
イワレヒコも珍彦の気さくさを気に入ったようだ

#イワレヒコ 11
珍彦の案内で難波の岬(大阪城公園付近)に到達した一行
入江(河内湖)から上陸すれば大勢の敵がいると思うが勝算あるんかね?
珍彦の問いにイズセは答えた
無いが、闘ってみなきゃわからんだろ?
楽々と勝てる人員は揃ってないが
この兄弟に乗っかるのも悪くないか、と珍彦は思った

#イワレヒコ 12
草香津(東大阪市日下)に上陸した一行はやや南に下って
信貴山あたりを越えて竜田に出ようとしたが思った以上に山が峻嶮で
一旦、草香に引き返すことにした
おいおい、お坊ちゃん達大丈夫かね
珍彦は思った
理想郷にたどり着くのは容易くはないかぁ
とイワレヒコは迷走を楽しんでいた

#イワレヒコ 13
信貴山から引き返し生駒越えをしようと草香津に戻った時
急に三百人くらいの軍勢が現れた
イワレヒコの軍勢は百人くらいだ、このまま戦えば劣勢すぎる
退路を塞がれたから舟に乗って逃げることもできない
こりゃヤバいわ
ずっと山向こうの国の人から監視されてたんだな
珍彦は焦った

#イワレヒコ 14
敵軍勢の長らしき者が言った
筑紫からぞろぞろと観光か?
ここは遊ぶとこじゃねぇぞ
ワシたちが平和に暮らしてんのじゃ
入江の鰐の餌にしてくれるわ!
珍彦は知ってる、ありゃ登美の長脛彦じゃねえか
こりゃ逃げるが勝ち
と後ろを向こうとしたとき、ムズと腕をつかまれた
イワレヒコに

#イワレヒコ 15
イズセと長脛彦は対峙したまま次の動きを探っている
逃げたいvs一網打尽にしたい
その緊迫の中
イワレヒコは珍彦の腕をつかんで言った
こっそり鏡と盾を沢山あそこに並べて置いて!
珍彦が言われた通りにすると
イワレヒコはササっと角度を調整し
イズセ他にここまで下がれと言った

#イワレヒコ 16
対峙した長脛彦に向かってイワレヒコは叫んだ
ほら、吾たちが怖いのかー?早く来いよw
長脛彦は煽りにぐぬぬと歯ぎしりし
皆、あやつらを捕えて鏖せ!
と命令した
そして、敵一団がある地点まで来ると
鏡や盾がキラッと光り回りが何も見えなくなった
イワレヒコはニヤリとほくそ笑んだ

#イワレヒコ 17
敵が動けなくなった隙に逃げるんだ!
イワレヒコが叫ぶと一行は舟に向かって走り出した
しかし、殿となったイワレヒコ、珍彦が動き出すころには
敵たちも反撃の弓矢を撃ち込んできた
かわそうとしたイワレヒコに意外な方向から矢が命中!
と覚悟した寸前にイズセが現れその矢を受けた

#イワレヒコ 18
イズセに刺さった矢は深く、その場で動けなくなった
兄上!ごめんなさいっ!私のために…
イワレヒコは泣きながら兄をおぶさり、珍彦が矢や追っ手を振り払う
何とか船に乗り込み沖に出られたが
兄は動かないまま
イワレヒコは自分や一行の力不足を痛感し
捲土重来を兄に誓った

#イワレヒコ 19
矢傷に倒れたイズセを連れ一行は雄水門(泉南市男里)に上陸し
手当てしたが回復することは無かった、最期に
心残りなり、吾が王国を見たかった!と力弱く叫んで絶命した
珍彦の勧めでイワレヒコは紀の川を遡上して
山向こうのユートピアを目指し
王国を建てると兄に誓った

#イワレヒコ 20
珍彦の提案で再起の決意と同中のご加護を得るため
イズセの亡骸を紀の川河口に葬ることに決め
一行は南下し河口にたどり着いた
しかしここでも見張りに発見されたことで既に軍勢が待ち構えていた
名草邑の女族長の一軍であった
兄上、しばしここでお待ちください
イワレヒコは言った

(21-へ続く)

古代史考察-2吉備氏外観 前方後円墳・前方後方墳・円墳まとめ

吉備氏に纏わる(と私が考える)前方後円墳前方後方墳・円墳は全て訪問しましたので表にまとめてみました。

1.兄・吉備津彦(上道氏)系統

NO 形態 古墳名 推定被葬者 世代 全長 造墳時期
01 方円 浦間茶臼山古墳 五十芹彦命 初代 140m 4C前半
02 方円 茶臼山古墳 125m 4C中頃~後半
03 方方 操山109号墳 高田姫 初代 76m 4C前半
04 方円 網浜茶臼山古墳 日子刺方別命 2代 92m 4C中頃
05 方方 備前車塚古墳 吉備武彦命・母 2代 48m 4C中頃
06 方円 金蔵山古墳 吉備武彦命 3代 165m 4C後半
07 方円 宍甘山王山古墳 穴戸武媛 3代 68m 4C後半
08 方円 神宮寺山古墳 浦凝別命 4代 155m 5C初
09 方円 一本松古墳 葦守武彦命 5代 65m 5C前半
10 方円 玉井丸山古墳 稲生臣 6代 150m 5C中頃
11 方円 両宮山古墳 田狭臣 7代 206m 5C後半

(形態:方円-前方後円墳、方方-前方後方墳
上道氏エリアで吉備氏(上道氏)直系に関係なさそうと思われる古墳(片山古墳、一日市古墳、操山古墳群など)は訪問・考察の対象外とさせていただきました。(関係あるかもしれませんが)
また吉備氏関係でも古墳後期、末期のものは省かせていただきました。(牟佐大塚訪問しましたが)
それにしても一本松古墳の小ささは気になります。出土品からみれば男性首長であろうと思われますし。比定が違うのか、それとも100m級の陵墓を築けない事情があったのか…

2.弟・吉備津彦(下道氏)系統

NO 形態 古墳名 推定被葬者 世代 全長 造墳時期
01 方円 中山茶臼山古墳 彦狭島命 初代 105m 4C前半
02 方円 矢藤治山古墳 彦狭島命・妃 初代 35m 4C前半
03 方円 尾上車山古墳 稚古止男命 2代 138m 4C中頃
04 方円 佐古田堂山古墳 御鋤友耳命 3代 150m 4C後半
05 小盛山古墳 兄媛 4代 95m 5C初
06 方円 造山古墳 御友別命 4代 350m 5C前半
07 方円 作山古墳 稲速別命 5代 282m 5C中頃
08 方円 小造山古墳 速津彦臣 6代 142m 5C後半
09 方円 宿寺山古墳 窪屋臣 7代 118m 5C後半
10 方円 こうもり塚古墳古墳 津布子臣? 8代? 100m 6C

(形態:方円-前方後円墳、円ー円墳)
こちらも、下道氏エリアで吉備氏(下道氏)直系に関係なさそうと思われる古墳は訪問・考察の対象外とさせていただきました。(関係あるかもしれませんが)
また吉備氏関係でも、こうもり塚古墳以外の古墳後期、末期のものは省かせていただきました。(江崎古墳など)
やはり造山古墳、作山古墳の大きさは別格ですね。改めて応仁・仁徳朝でも下道氏の優遇がどれほどだったかを実感できます。

これで古墳築造状況からの吉備氏の考察をとりあえず完了とさせていただきます。
今後は吉備氏と姻戚関係を結び、吉備氏と同族関係になっていった氏族、賀陽臣氏、苑臣氏、笠臣氏、三野臣氏などの状況を文献や神社祭神などをたどって研究していくつもりです。
(直接関係ないけど吉備津彦神社・梅)
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遺跡訪問-24.鬼ノ城(鬼城山)

今回は、古墳では無く古代山城跡、鬼ノ城に訪問しました。
(鬼ノ城・鬼城山どちらでも間違いないと思いますが、この記事では鬼ノ城に統一しておきます)

なぜ鬼ノ城かというと、吉備氏(上道氏・下道氏)の古墳訪問を完了して締めくくりとして、吉備氏が最初に吉備の地に到来した時、恐らくヤマト王国に抵抗した勢力が最後の砦にしたのではないか?と思われる地を訪れて、吉備氏がどのように制圧していったのかを確認したいと思ったからです。
そして、岡山に住んでいながら鬼ノ城に登ったことが無かったので、初体験しておこう!という目的もありました。

初めてならば、砂川公園から北上してビジターセンターから鬼ノ城に入る、という道がオーソドックスである、ということは分かっているのですが、今回は時間短縮のためできるだけ近くまで自転車で近付いてそこから登山したい、と思ったので奥坂にある東駐車場(休憩所)・登山口から登ってみました。

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東登山口からの山道は最初は平坦・楽々、半ばからは急・岩場でへとへとになりながら鬼ノ城の周回路にたどり着きました。

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*行きはよいよい、帰りは恐い。下山は結構危険ですから、体力・足腰に自信が無い場合、また夏場は避けた方が良いです。

鬼ノ城の北門~西門~南門~東門の周回路もたっぷり歩いて見て回れて楽しいですね。またここから見る岡山・総社・倉敷の風景も壮観。
多くの人が訪れるのも納得の内容でした。

で登って周囲を見渡してみてよ~く解ったんですが、この山は平地に近い割には十分な高さがあるし、岩が多い山肌なので守備の砦として優秀な地形であると。
南側、南西側の尾根伝いの守りを固めておけば、他方向からの攻城はあまり気にしなくて良い感じでした。
(西や北西方向も尾根伝いはありますが、こちらから攻めてくる敵はあまりいなかったでしょう)
鬼ノ城自体は7C・天智朝の頃の遺構だと思いますが、それ以前の古墳時代や弥生末期の高地性集落などでも守りの砦として柵や門が造られたのではないか?と私は考えています。
弥生末期に北九州や四国の部族が度々瀬戸内海を東進し(例えば神武東征のような)、この吉備の地にも何度かそれらの部族が押し寄せてきたのではないか?
また崇神朝の吉備津彦西征の時に阿曽の民・温羅などが最終砦としてこの山に立て籠もったのではないか?
と思うのです。(何等物証は無いですが)
この鬼城山の砦は通常規模の敵の進攻には十分耐えられて、無敵を誇っていたのではないでしょうか?
ただヤマト王国の吉備津彦西征だけは違っていた。人や武器の物量が桁違いであったし、たぶん戦略や腕力にも長けていたのでしょう。この時は阿曽の民・温羅も白旗を挙げるしかなかったかと。
また、吉備津彦の側から見た場合にこの砦を攻めるとしたらどういう方法をとるだろう?なんてことも考えてみました。
物量に任せた南側からの弓矢による攻撃・進軍か?
こないと見せかけ東側からの奇襲攻撃か?
あるいはもしかしたら高松城水攻めのように兵糧攻めに遭ったのかもしれません。歴史は繰り返す、と言いますから。

そんな感じでここは、元・吉備勢力はヤマト王国に服属した最後の地(玉砕の地)だったんじゃないかなぁ、と考えながら鬼ノ城からの風景を見渡したのでした。
そしてそういうことを山の上から見渡しながら実感できたのは、今回の登山の大きな収穫でした。今後の歴史考察の参考になるぅ!

(鬼ノ城東門付近からの風景・この日はあちこちで河川敷の野焼きをやってました)

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神社訪問-5.高松最上稲荷奥の院、竜王山一乗寺

最上稲荷ならびに奥の院は神社っぽい場所ではないですが(神仏習合なので)神社訪問とさせてください。鳥居も沢山あるし。
しかし、最上稲荷一乗寺も目的地ではありません。私の目的はひたすら竜王山。
といっても竜王山は一乗寺の境内の中にあり、八大竜王の石塔が立っている場所なのでした。なんか竜王山っぽくない・・・

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しかも吉備氏の影も形も無い…
ということで麓の最上稲荷から小一時間かけて登ってきましたが早急に次の目的地、竜王池に向かいました。

実は、この竜王山までの登山道から分岐して竜王池に向かう道があったんですが、それには気づかず、一乗寺から車道を下って結構、大回りで竜王池ならびに龍泉寺に向かい、無事到着しました。
(そして竜王池から元の登山道に簡単に行けることを帰路に気付きました)
この竜王池の方が、とても大きくて雰囲気があって良かったです。
後から龍泉寺のHPの竜王池伝説を見て初めて知ったんですが、兄・吉備津彦に従った楽楽森彦命が造ったという伝説があるんですね。

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楽楽森彦命云々は別として、竜王山、竜王池は古代吉備氏が関係していたんだ、としっかり感じることが出来ました。やはりここは吉備氏(特に下道氏)の聖山だったんですよ。

先の葦守八幡宮でも書きましたが、古墳時代、吉備氏がこの地を支配してた頃はこの竜王山は今の高松地域から見た聖山だったのだと思います。大河は流れていないものの、竜王山を含めた山塊から豊富な水が流れ、河嶋川(高梁川)の分流もあり肥沃であって、しかも氾濫が少ないこの土地は稲作を主とした生産業に適していたと思われます。だから佐古田堂山古墳や小盛山古墳が造られた。そして葉田葦守宮もこの地にあったと私は考えています。もしかしたら今の最上稲荷がある地がそうだったのかもしれません。
今の足守地域が発展したのは室町~江戸期なのではないでしょうか。古代は恐らく足守川が暴れて田畑を作るのは難しく、また西岸の阿曽地域は吉備氏が訪れる前からいた人たちが住んでる土地だったので警戒が必要だったため、足守川東岸で暮らすよりは高松地域にいるほうが落ち着いたんではなかろうか?と考えます。 

造山古墳、作山古墳と応仁・仁徳期に下道・吉備氏は山陽街道沿いにその勢力を誇示しますが、その頃も日常の暮らし、住まいは今の高松地域がメインだったのではなかろうか?
絶頂を過ぎ、雄略朝の頃の弾圧を受けてからは下道氏は河嶋川(高梁川)以西に本拠を移していくようですが、高松地域・竜王山は間違いなく、ここを征服地として住み始めた吉備氏(下道氏)の繁栄の地であり、
高松・竜王山-吉備中山・竜王山-江田山・竜王
を結ぶ地域が農業・工業・商業、物流、交通の盛んな地であったのではないでしょうか?

などという想像(妄想)を抱きながら、高松最上稲荷竜王山を下山したのであります。

(高松地区風景-小盛山古墳、佐古田堂山古墳方向)

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神社訪問-4.葦守八幡宮、葉田葦守宮跡

吉備氏(上道氏、下道氏)の前方後円墳訪問は完了したので、神社他の遺跡訪問に移っていきます。

今回は、葦守八幡宮および葉田葦守宮跡に訪問しました。
説明は不要かとは思いますが足守にあります。
なぜここかと言いますと、私、応神天皇が大変気になっておりまして、古墳時代の中では関心No.2なのです。
(No.1は尾張氏の眞若姫です)

JR足守駅から国道429号沿いに1.5km程北上したところにある当社。
正面参道は本殿・拝殿から南に延びていますが、
(200m程南の一の鳥居は日本最古の部類のものらしい)
本殿・拝殿の西側参道を降りきったところに葉田葦守宮跡があります。でも宮跡といっても石柱が立っているだけで、何をもって宮跡としてるのかは全く分かりません。
*宮跡の痕跡がどこかに残ってるのでしょうか?それとも何かの文献にこの場所(西参道登り口)にあったと書かれてるのでしょうか?
正直「ホントにここだったの?」という思いは拭い去れませんが、ま、それは置いといて立派な本殿・拝殿と(南に延びる)存在感ある参道は、この社がかなりこの地域の尊崇を集めていたことを物語っていますね。江戸期の足守藩主木下家の庇護があったからでしょうけど、それ以前からも地域の鎮守であったんでしょうね。
足守川をはさんだ決して狭くない平野全体をよく見渡せる立地にあります。しかしながら…

考察に入りますが持論では、応神天皇の時世、御友別命が造山古墳、兄媛命が小盛山古墳、父の御鋤友耳命が佐古田堂山古墳ですので、葉田葦守宮が現在の葦守八幡宮の地にあったというのは何となく違和感を感じます。葉田というのが何を意味するかは決め手がありませんが、(秦氏がこの地に繁栄したのは応神天皇時世よりは時代が下ると考えています)より相応しい場所は高松地域、言ってみれば現在の高松稲荷がある地が最適では無いかと思うんです。
この地に本拠を構えていたからこそ父や妹の陵墓が高松地域にある、
御友別命については威光を伝えるために山陽道に近い場所を選んだんでしょう。高松地域こそがこの当時の下道氏の本拠地であった、と私は考えたいです。下道氏=吉備氏の聖山、竜王山の麓でもありますし。

そんなわけで足守地域は、経済がより河川交通に依拠するようになった中世・近世以降に重要拠点として発展していったのではないか。
毛利家側の拠点であった高松城を陥落させた織豊政権は高松を捨てて足守を拠点として考えたのかもしれません。
とりあえず現時点では、こういう結論で結ばせていただければと思います。(また新たに勉強したら追記いたします)

葦守八幡宮ーWikipedia

(葦守八幡宮拝殿)

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(葦守八幡宮本殿)

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(葉田葦守宮跡)

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