吉備の古代史-6 兄・上道系統

吉備武彦命の子孫は浦凝別(神宮寺山古墳)、葦守武彦命(玉井丸山古墳)と続きますが、3代孫の田狭臣の時に大和王国・雄略天皇から手痛い仕打ちを受けてしまいます。

大和の朝廷に出仕した際、平群真鳥から世間話として

「田狭臣の奥方(葛城氏・毛媛)はこの上なく美しい人との噂、かねがね伺っておりまするぞ」とからかわれ、田狭臣も悪い気はしないので「吾にはもったいない嫁でございます」と恭しく答えました。

すると後日天皇の御前に呼び出され、

「田狭臣、任那へと赴き不穏な動きのある新羅の進攻を防いでくれるか?すぐに発って欲しい。その間、真鳥臣から聞いているお主の美しい妃は吾が預かっておこう」

と申されました。田狭臣は、

「しまった。平群真鳥に謀られた。」と気付きましたが時既に遅し。

雄略天皇の吉備氏や葛城氏叩きは誰もが知る事実。自分には影響がない、と甘く考えていたことが悔やまれますが、天皇の命令に大人しく従いました。

任那に赴任後、田狭臣は援軍の必要を感じ、朝廷に許可を得た後に、自身の次男「弟君」を呼び寄せることにしましたが、ここでも謀にあい、「弟君を呼び寄せたのは任那で反乱を起こすためだ」とされてしまい、それに騙された弟君の妻樟姫に弟君は殺されてしまいました。

ここに至って田狭臣は、

「何をしても無駄だ。上道氏はここで消されてしまう」

と世を儚み、毒薬を飲んで自死してしまいました。

田狭臣の亡骸は吉備へと運ばれ、両宮山古墳に葬られました。

(古墳自体は寿陵として生前から作られていました)

ただ最後まで不幸はついて回ります。天皇から「反乱を企てた者に相応しい廟にする!」として、古墳の飾りの葺石や埴輪は全て撤去され、寂しい佇まいにされてしまったのです。

後年、雄略天皇の死後、上道氏は星川皇子の乱でさらに勢力を削がれ子孫の古墳も規模が縮小されましたが、滅することはなく、細々ながらも朝廷に仕える氏族として存続したようです。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-5 兄・上道系統

 兄・吉備津彦彦五十狭芹彦命)は出雲進攻完了後、吉備に戻り上道(備前)を拝領した支配地として居住します。

ただ、この頃にこの地域が吉備とか上道とかと呼ばれたかは、今となっては分かりません。数百年後の記紀やその他の資料に載ってるから我々はそう呼んでいるだけで、他の呼称を知らないので、この記事(物語)でも便宜上、そう呼ぶことにします。

 兄・吉備津彦はあまり領土(領地)に興味はありませんでした。大和の大王(崇神天皇)の命に従って戦いの日々に身を置くことが何より好きでした。なので上道を収めることは子たちや家臣に任せ、死ぬまで色んな地に出かけていました。亡くなったのは崇神晩年か垂仁黎明頃でしょうか?(西暦330年前後か)東に吉井川が流れ、北に妙見山が見える、巻向に似た雰囲気を持つ浦間茶臼山に廟(古墳)が作られました。

浦間茶臼山古墳 - Wikipedia

 

兄・吉備津彦の子は、日子刺肩別命でした。

(兄・吉備津彦と並ぶ孝霊天皇の皇子では無い)

日子刺肩別命は具体的に記されたものがないので活動は不明ですが、

その廟は湊茶臼山古墳(操山104号)だと思われます。

なお日子刺肩別命は越中・利波臣氏の祖とされていますが、恐らく子の吉備武彦の北陸道親征が元となって、そのように扱われているのではないかと思われます。

湊茶臼山古墳 - Wikipedia

 

日子刺肩別命の子が吉備武彦命です。時代は景行天皇御代(350年頃)。皇子倭健命の東征に随行した人です。随行したのは吉備武彦命だけでなく、兄弟の意加部彦命、建功狭日命もでした。

倭健命と往路をともにし仙台付近まで親征を行いますが、途中焼津付近では現地の賊酋が火攻めで襲ってくるところを草薙剣で切り抜け難を逃れます。そして健命はこの地に意加部彦命を残し安堵させます。

(意加部彦命は駿河・庵原國造の祖となります)

そして帰路は信濃まで同行し、そこから倭健命本隊は諏訪湖・木曽方面へ、吉備武彦命の別働隊は飛騨から越中・越前方面へ移動し、両隊は美濃で合流しました。飛騨、越中、越前では土着の氏族を平定し、鉱山を開拓し、また伊弥頭國造や利波臣氏の祖となる親族諸氏を残しました。建功狭日命も角鹿國造の祖となりました。

また別働隊には尾張氏も加わっていたようで、東征が終わり吉備に帰る際に随行したようです。(岡山の尾針神社、尾治針名眞若姫神社がその名残と思われます)

吉備武彦命は、父と同じ操山の金蔵山古墳に葬られました。豊富な鉄器と鉄製武具が当時の威勢を伺わせます。

操山古墳群 - Wikipedia

 

吉備の古代史-4 出雲進攻

出雲振根命は飯入根命・鸕濡渟命と会う前に偽装使者と面会しましたが、大和王国の接近で人心が混乱する中、偽装使者を疑うこと無く信じ、激怒します。そして訪れてきた飯入根命を、語ること無く突き殺してしまいます。鸕濡渟命も同時に殺してしまおうとしましたが、異常な空気を察知した鸕濡渟命に先に逃げられてしまいます。逃してはならぬ!と追う出雲振根命の前に突然船に乗って川を下る弓隊が現れます。武渟川別命とその精鋭部隊でした。今度は逆に、武渟川別命

出雲振根命の首を撥ねます。止屋の淵で意宇の盟主と杵築の盟主が殺されたことで、杵築と意宇・大和の全面戦争に突入してしまいます。

がしかし、

出雲の兵士たちは海から、もしくは海岸に沿った東西からの侵入にはめっぽう強いですが、南側の山岳地帯からの侵入はあまり経験がなく、1番の弱点でした。なので伯耆国造族や東出雲の兵士たちの侵入に対しては持ち応えることができましたが、その状況を睨みながら、斐伊川上流から降りてくる吉備津彦命武渟川別命の大和王国軍には全く抵抗できず、各個撃破をくらって、西出雲の兵士たちは雲散霧消の結果となりました。

これで杵築王国は消滅。味鉏高彦根命-大穴持命が造り上げた出雲王国は意宇の国造族、ひいては大和王国に国を譲ることになりました。

そして杵築王国そのものにも、大和王国の有力部族が移住してくることになりましたが、周りの石見、波久岐(伯耆)、吉備中県(備後美作)、出雲(意宇)にも久米部族、物部部族、吉備弓削部、倭文部族などが移住し、しっかり杵築勢力を見張る形となりました。

本稿は吉備に関する内容のため出雲のことは詳しく描いていませんが、出雲大社を核とする杵築王国は、大和王国にとっては大きな障壁だったことがこれでわかると思います。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-3 出雲進攻

吉備津彦兄弟の吉備征服完了から10年ほど立った時、崇神天皇は最後の勅命を功臣兄弟に下します。

「我の王国完成のための最後の仕上げに武渟川別命とともに出雲に進攻し、我が領土としてくれ」

兄・吉備津彦彦五十狭芹彦命)は二つ返事で拝命しました。弟・吉備津彦彦狭島命)は吉備の国がまだ安定してないし、出雲攻略も決して簡単ではないと思いましたが、兄の意向には逆らわず、後方支援と吉備の守備に回ることにしました。

当時の出雲国は東半の意宇勢力と西半の杵築勢力連合王国。まずは、東の意宇勢力を従えるべく、進軍を開始します。

弟が前線に出ない分は、吉備進攻もともにした久米部族、吉備弓削部に加え、物部氏族、丸部氏族の援軍を天皇からあらたに受け、兄・吉備津彦は簸川を上り、院庄から出雲街道を進み、熊野方面へと進軍します。

武渟川別命も先に王国に恭順した伯耆国造族を従え、大仙の北側を海岸沿いに進軍し、これも熊野方面を目指します。

迎え撃つは飯入根命の一族(後の出雲国造)。しかし、四十曲峠から一糸乱れず隊列を組んで、弓の弦をブンブン鳴らしながら降りてくる吉備津彦軍団を見て、海側からも武渟川軍が進んできていることを知り、あっけなく白旗をあげます。兵数・練度の差、地の利の悪さを見て、飯入根命は無駄な戦闘を避けたのです。そして杵築の国とともに大和王国の軍門に下り、支配下での出雲国の生き残りに賭けることにしました。

飯入根命は吉備津彦命武渟川別命に対し「私が降伏するように、出雲振根を説得してまいります」と申し出て、先に杵築・出雲郷の止屋の淵に息子の鸕濡渟命と出かけていきました。しかし「おとなしく降伏されて意宇・杵築の両国がそのまま残ってしまうのは先々に不安を残す」と考えた武渟川別命は2人よりも先に、出雲振根命に、鸕濡渟命の部下だと偽装した使者を送ります。「我が主、鸕濡渟命は杵築の神宝を奪い、大和の王国に献上するつもりだ!」と。

 (つづく)

吉備の古代史-2 吉備進攻

吉備の東半分を攻略し、吉備津彦兄弟の軍団は簸川(旭川)を越えて烏ガ山と坊主山の間の笹が迫に進軍しますが、この山と川に挟まれた地点で温羅の率いるゲリラ部隊が待ちかまえます。平地では威力を発揮する弓隊も、開けてない土地ではその威力を発揮できず、温羅はその弱点を突いてきて、吉備津彦軍団も少なからぬ被害を被りました。

しかし数では圧倒的優位に立つ軍団は相手にもせず進軍を続けたので、温羅は次の攻撃を仕掛けます。

軍団が吉備の中山と大平山の間の狭い平地に差し掛かったタイミングで後方から猪の群れを伴って槍や刀で突撃します。弓隊はいきなり後方には攻撃できず、ここでも大打撃を受けますが、ここで南側の海から進軍してきた吉備津彦軍団・海兵部隊が挟み撃ちにしたため、温羅の兵たちは近くの山に四散します。

そして吉備津彦軍団は被害など気にせぬ風で足守川を越えようかとした地点で、上流から火をかけた葦舟と共に一気に温羅の守備隊が襲い掛かります。吉備津側の兵も、温羅側の兵も傷つき、殺され付近の小川も鮮血で赤く染まります。しかし数に勝る吉備津彦軍団は何とか態勢を立て直して温羅の守備隊を押し返して足守の阿曽の地を占領することに成功しました。

温羅の守備隊は最後の決戦を行うべく、北側の鬼城山に立て籠もります。吉備津彦軍団はそれを見ながら阿曽の地に布陣し、この地の住民を捕まえて、嬲り殺す、犯す、略奪の限りを尽くしました。その様子を見るに堪えず温羅は鬼城山の守備隊を解散し、この時点で降伏しても殺されるだけだから、四方八方に逃げるよう指示しました。そして温羅自身は再興を期すため密かに川嶋河(高梁川)に出て下って西に向かおうとしました。

しかし、吉備津彦軍団の佐々森彦はそのことを予測し、湛井の水分れ

で待ち構え、これを捕らえました。

予想に反して弟吉備津彦・彦狭島は温羅の有能さを買って配下の武将になれば命は救うと申し出ましたが、温羅は捕らえられたことを恥じ、「死して阿曽の民に詫びる!」と自害しました。

吉備津彦・彦五十狭芹彦は元々殺すつもりだったので、自害した温羅の首を撥ねて湛井から東に流れる川嶋河の支流、宮瀬川に流しました。

これにて温羅の王国は潰え、後に吉備津彦と呼ばれる兄弟は吉備の進攻を完了し自らこの地の支配者となりました。(もちろん大和朝廷朝臣としてです)

温羅の首は、こっそりと行方を追っていた阿曽の民に吉備中山の麓あたりで拾われ、その地で弔われました。そのことを弟吉備津彦・彦狭島は後で知り、これまた兄には黙って、中山に造られた自身の陵墓(中山茶臼山古墳)に近い処に塚を造り温羅の霊を弔いました。

 

宝賀寿男氏「吉備氏」

 

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吉備の古代史-1 吉備進攻

宝賀寿男先生の「吉備氏」を読んで勉強した内容を、つまり吉備の古代史を大まかに書いていきたいと思います。とはいえ、そのまま本の内容だけを記述していくのもなんですから、少し物語風に。

(登場人物、設定等は宝賀先生の説に従ってますが、ストーリーはブログ主の創作ですので悪しからず)

西暦317年(頃か?)崇神天皇が大和の王になってから、皇族将軍(大彦命武渟川別吉備津彦丹波道主命、ただし実際は皇族ではない)に北陸・東海・丹波・吉備を攻めて大和の王国を拡大するよう命令が下りました。崇神天皇より前から少しづつ王国は拡大していたのですが、なぜかこの人は一気に王国を倍以上も拡大しようと思い、結果的に四道将軍は全て征服に成功し、実際にそれを実現したのです。

吉備津彦、いえ実際は彦五十狭芹彦、彦狭島の兄弟は、王国の重臣・磯城県主の家系から出た勇猛果敢な武人でした。天皇の命を受けた後、当時は王国の範囲に入りつつあった播磨の氷川の地(現・加古川)で戦勝を祈願し、翌年に吉備地方に進攻開始しました。

吉備津彦兄弟の勇猛度は弓攻撃の強さにありました。兄弟個々の攻撃力のみならず、組織的な弓隊の威嚇力、侵攻力が飛び抜けていたのです。弓の弦をブンブン鳴らし、声を揃えて大音声で威嚇し、一斉に大量の弓を射掛けます。これで大抵の敵・土豪神は王国の軍門に下ります。

陸からは兄弟の弓隊が今の山陽線と同じようなコースで上郡・和気・赤坂・三野を攻略し、海からは鴨族系の武将たちが牛窓・児島から穴海へと侵攻します。

そしてとうとう、吉備進攻の最大の目標、温羅と対峙することになりました。温羅は足守地方、鬼城山を本拠にして後の備中と呼ばれる地方に産鉄・製鉄・農業を広め民に慕われる、吉備冠者と呼ばれる王でした。恐らく半島の伽耶地方から来た一族だったと思われます。

(つづく)

遺跡訪問-5.お塚様古墳

正直、ここは見たことも行ったこともありません。今は跡形もなく公営住宅地になっているようです。有し頃は「五つグロ(つちへんに丸)とお塚様」と呼ばれていたそうで、4基の小円墳と1基は前方後円墳(お塚様)だったそうです。(あれ?数が合わないか?)

5C以降の造墓らしいですが、仿製鏡、眉庇付冑、直刀、弓矢の束などが出土したらしいです。どこかに保存されてるのでしょうか?

この時期によくある古墳群のようだったみたいです。特に注目すべき点は無いようですが、私は特別なものを感じてます。

何となく尾治針名真若姫そのものか、あるいは真若姫に模される人の墓ではなかったかと思うのです。主たるお墓の周りに4基の従者のお墓だったのでは?と考えると夢が広がるじゃないですか(笑)

女性の墓だったということを証明するものはないようですが、真若刀婢に相応しい武具や鏡の出土が「そうじゃなかったのかなぁ?」と思わせてくれるのです。

他にも資料がないか色々と勉強します。